月別アーカイブ: 2010年12月

では、そこにいるのは

明かりの消えた店の外。こんな張り紙を見つけた。
男もおらず、
女もおらず、
そのいずれでない者もない。
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古くは晋代の山海経(せんがいきょう)に描かれた
人外あるいは魔境の地か。
きゃー。

ことば遊び

泣く菰田。
(読み:泣く子も黙る)
すみません。思いついたらがまんできず…。
くだらないです。すみません。
言葉遊びです、仕方ないです。
かんにんです、かんにんです。
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MOU48

ものすごく私事ながらきょうは誕生日。
もう48である。
よもや自分がこんな年齢を迎えることになろうとは、
思ってもみなかった。
そういえば以前、小学生の女の子に歳をきかれ
答えるのをためらったことがあった。
えーっ、せんせーそんなおじさんなの?
なんて言われるのが嫌だったのだ。
そのとき、ぼくは35。
35でもうおじさんと思っていたなんて、
どうにも贅沢な話である。
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フォーエバーヤングなんていうありえないことを願うのではなく、
年齢相応の賢さを身につけていけたら、と思う。
人の世には、
40にならなければ分からないこと、
50になってはじめて身につく知恵ってものがあるはずなのだ。
そいつがちょいと、楽しみだ、と言っておこう。

ぼくはわたしをおれと呼ぶ

ぼくは、ここでは自分をぼくと書き、
仕事をするときは、私といい、
家族や親しい友人の前では、おれと呼ぶ。
自分のことをお父さんとは言わないが、
おじちゃんはね、という語り口は結構好きだ。
女性だって、私とあたしとお母さんの
使い分けくらいはしているだろう。
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わたしと称するとき、ぼくの人格はわたしに切り替わる。
おれと称するとき、おじちゃんと称するとき、
ぼくの人格は
その呼称にふさわしいものに切り替わっている。
ぼくがここでぼくと称しているのは、
私と呼ぶほど円熟しておらず、
いまだに物事がよく分かっていない自分として書いている
からだろう。
はっきり自覚しているわけではないが、
きっとそんなところだ。
もしぼくが私としてこれを書いているのなら、
表現の仕方だけでなく、選ぶテーマも内容も、
もしかしたら感想や結論さえも、
まったく違ったものになっているかもしれない。
自分をどう称するかによって、
世界に向かう立ち位置がすっかり違ったものになるからだ。
王が自らを朕と呼ばず、ぼくちゃんとでも称していたら、
世界の歴史は大いに変わったろう。
恐怖をもって民衆をひれ伏させるような権力は
生まれなかったかもしれないし、
もしかしたら幼児的な底なしの破壊が行われてしまった
かも知れない。
いずれにせよ、超越的な自称なしに
超越的な自分を演じきることは難しかったに違いない。
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ぼくは子どもが自分のことをおれと呼ぶのが好きではない。
子どもはまずぼくとして自分を形成し、
しかる後におれになるべきで、
たとえ気の置けない仲間の中でおれであっても、
年長者の前では、
やはりぼくであり私であるべきだと思っている。
なぜなら、おれは闊達であり、自由であり、奔放であり、
ときには自分を真摯に見つめる自称だけれども、
自分を支えるものと、
自分を超越するものに対する配慮や畏れを
決定的に欠くものだからだ。
おれから生まれるのは、おれにとどまるおれにすぎない。
ぼくからうまれるぼく、
私から生まれる私、
わたくしから生まれるわたくしに、
出会わないのはもったいない、と思う。

原初の世界を夢想する

自然の中に身を置くことを想像してみる。
森や渓谷のことではない。
原初の状態とでも言うべきか。
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思えば今、
ぼくたちが眼で見、耳で聴き、手で触れる世界は、
すべて人の手によって作られたものだ。
毎日を過ごしているこの風景は、
原初の姿と比べると、なんていびつなものだろう。
広がりもなく高さもなく深さもない。
まるで70平米4LDKのように
切り刻まれ、小分けにされた世界だ。
幅5m、高さ10メートル、長さ数十メートル。
ぼくが家を一歩出て、
一望できる世界の広さはこれである。
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この場所の、ほんとうの大地の広さは、
ほんとうの空の高さはどんなだろう。
そいつをひと目見てみたら、
飼い慣らされた目も耳も脳みそも、
本来の広々とした働きを始めるんじゃないか。
こんな想像をしてみたら、
当たり前なものの当たり前さが
ちょっと揺らいだみたいで、おもしろかった。
そんだけ。

ひとりじゃ無理だぜ

暗い夜道でひとりになったら、
携帯電話で話しながら歩くとよい、と聞く。
犯罪者の心理を想像すれば、なるほどそうだろう。
実況中継されながら、危害を加えようとは
考えにくいに違いない。
ところがねー。
話す相手もなくひとり芝居で話せるかっていうと、
これはとてつもなく難しい。
あらかじめ用意したセリフをしゃべるならいざ知らず、
自然な会話をひとりでする、なんてことは到底できない。
やっぱり言葉は相手がなければ生まれないものなのだ。
自分ひとりで言葉を生み出すことは、なかなかできない。
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人はひとりでは何もできない、
なんてことはよく言われるけれど、
この何もできない、ということの示す範囲は、
ぼくたちが普通に思っているよりも、ずっと広い。
ひとりでは仕事が進まないとか、食べ物も手に入らないとか、
学校に行くこともできないとか、そんなことばかりではない。
ひとりでは、笑うことも、怒ることもできないのだ。
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誰かと話をするだけで、そのことがよく分かる。
そこで話していることは、どこをとっても
ひとりでは決して語れない言葉ばかりだ。
相手の相づちや表情ひとつで、
自分の語ることはどんどん流れを変えてゆく。
そのおかげでひとりでは思いつかないような考えが浮かんだり、
自分で知っていることすら忘れている言葉があふれてきたりする。
ときには窮屈な思いをしたり、嫌な気分になることもあろうが、
それもまた、ひとりでは味わえないことである。
ほかにもある。いくらでもある。
そんなひとつひとつを思い出せば、
今日までわたしはひとりで生きてきた、なんていう
かっこいいセリフは、とても言えなくなるだろう。
合わせるか、反発するかは問題ではない。
他者との関わりの中にしか、私はいない。
こんなかんたんなことが、最近ようやく分かりかけてきた。

お天気のはなし

この頃は、天気予報がよく当たる。
昨日も夜半から雨になって、まさにどんぴしゃである。
以前は天気予報と言えば、
あたらないと決まったものだった。
「気象台、気象台」と三回唱えれば、
腐った魚を食べてもあたらない、
と言われたくらいだから、よほどである。
もっともこれは戦争が始まってからは、
「たまに当たる」ということで、
言わなくなったらしいけど。
それはともかく、
近ごろの天気予報は、よく当たる。
三枝惣右衛門と田村仁左衛門吉茂と
津軽采女正と岡田武松が
束になっても敵わないくらい、当たる。
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で、何が言いたいかというと、
これだけ当たるようになったんだから、
当たらないときに言っていた悪口と同じくらい、
すげー当たるよなあ、って感心してやろうぜ、
ということである。
ほめよう。
もっと人の仕事を、人の努力を、人の誠意を、ほめよう。
天気予報が当たるのは、
気象衛星の充実やら統計処理のなんちゃらといった
技術の進歩のおかげであって、
べつに気象庁が偉いわけじゃない、
なんてことを言ってはいけない。
だったら、
そうした技術の進歩をもたらした
みなさんの業績をほめればいいだけのことだ。
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ぼくたちはついつい、あれが問題これも論外、
あいつもこいつもバカばっかで、
この国の将来はもう暗澹たるものだ、
なんてことばかり言ってしまうけど、
そういう姿勢は知的でもなければ誠実でもない。
ほめることはほめ、喜ぶことには喜び、
いやあ、よい時代に生まれついたものだなあ、と
わが身の幸いをことほぐ方が、
どれだけ幸福に近づく道か分からない。
予報どおり、雨もあがった。
いい天気だ。

音のない街を歩けば

ぼくは徒歩通勤をしていて、
行き帰りは、たいてい、iPodを聴いている。
で、
そういう風にしていると、外の音がまるで聞こえないのね。
当たり前だけど。
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うしろから下り坂を走ってきた自転車が、
風を残してびゅんっと脇をすり抜ける。
そういうときは、ほんとにどきっとする。
ぼくはカメラを持ち歩いていて、気になるものはふらふらと
撮りにいく習性があるのだけれど、
そのふらふらした瞬間に
時速40kmで疾走する自転車に追突される、なんてことは、
十分にありうる。
音が聞こえていたら、ぶつかる前にぎゅっと身を固くして
身構えるだろうから、あるいは大した被害もないかもしれないが、
音が聞こえないところにいきなりどかんとぶつかられたら、
間違いなく大怪我をするだろう。
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風が吹く。
目の前の舗道を、ひとつかみほどの落ち葉が這って行く。
かさかさ、と乾いた音を立てているはずだ。
しかし、ぼくには無音である。
音のない風景は、目の前にあっても、まるでテレビで見るように、
遠く感じられる。
リアルな世界がヴァーチャルであるかのようだ。
すぐそこで交通事故が起こっても、音楽に浸っている心には、
それはきっと、絵のように静かなものに映るだろう。
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いつでもどこでも好きな音楽が楽しめることは素晴らしい。
しかし、何かがもたらされるところでは、
きまって引き換えに、何かが失われている。
それは、自覚できない何かで、
もしかしたら、かけがえのない何か、なのかもしれない。