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池谷裕二「進化しすぎた脳」

モノがちゃんと立体に見えるのは、目が2つあるおかげだと言われる。しかし片目をつぶっても、人の姿がペラペラの立て看板のように見えるわけではない。
視神経の数は百万本しかないらしい。デジカメで言えば百万画素である。しかし実際にわれわれが見ている風景は、どんな高画素の写真よりも鮮やかだ。
人の網膜は真ん中に神経が集まっていて、隅の方には色を感じるセンサーすらないという。しかし、もちろんわれわれは、視野の隅々まで、しっかりカラーで見えている。
これらの不思議はみな、ほんとうは見えていないものを脳が補って見せてくれている、という事実を示している。われわれは目でありのままの世界を見ているのではなく、目を通して脳が見せてくれる世界を見ているに過ぎないのだ。
モリヌークス問題はかつて哲学の問題だったが、今は脳科学がそれを引き継いでいるということか。ものすごく分かりやすく、最高に面白い本。

ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」

歴史の本の面白さは、どういう時代が描かれるかではなく、どういう歴史観で描かれるかにかかっている。その点本書で描かれる物語の面白さは抜群である。なぜ歴史はこのように展開したのかを問うのは社会科学として当然の姿勢だが、スペインはインカ帝国を滅ぼしたが、なぜ逆にインカ帝国がスペインを滅ぼすという風にはならなかったのか。なぜアフリカの黒人がヨーロッパを支配するというようにはならなかったのか、という問題提起はたいへん刺激的だ。その問いに対する答がこれまた鮮やかで、著者の手腕に見とれるばかりである。今日の社会の有り様を決定づけた要因は民族的な優劣などではなく、栽培に適した植物が生えていたか、技術が伝播しやすい地形をしていたか、家畜化しやすい動物が棲んでいたかというような、たまたま与えられた環境の違いだったというのである。偶然振り分けられたような環境が歴史を必然のように動かしていく、なんとも壮大な一万三千年の物語。

筒井賢治「グノーシス」

ずっと前、五千円も出してハンス・ヨナス「グノーシスの宗教」を買ったのに、読み切れず挫折したことがある。だから1500円の本書でもって、ちょっと分かったような気分になれたのは気分がよい。グノーシスとは、簡単に言うとキリスト教以前の神秘思想に端を発して、さまざまに分化しつつ中世の異端審問の時代まで生き残り続けた異端思想である。いろいろな流派があるが、至高の存在としての神と、世界と人間を創造した邪悪な神がいて、至高神が自分が作ったわけでもない人間を救い給うというのが共通した世界観である。キリスト教で言えば最初に「新約聖書」を編集したマルキオンから、ずっと時代は下って異端審問の標的となったカタリ派まで、時間的にも空間的にも実に深甚な影響を与えている思想でもある。大昔に流行った二元論にすぎないなどと片付けず、もう少し調べてみようという気になった。

種村季弘「ビンゲンのヒルデガルトの世界」

ヒルデガルトという女性は、12世紀に活躍した幻視者である。彼女には神から送られた映像をまざまざと見る力が備わっていた。田舎の修道院の中で育ち、ラテン語さえ知らない「無教養な」女性が、この幻視能力を足がかりとして、巨大なカリスマとして変貌していく。彼女の活躍は、やがて医学、薬学をはじめとする博物学的研究や、はては音楽に至るまでの広汎な範囲に及び、各分野に大きな影響力を持つに至る。
彼女はその特異な能力を活かして大きな名声を手に入れたけれど、もう少し時代がずれていたら、尊敬を集めるどころか魔女として葬り去られていたかもしれない。正統だから認められるのではなく、認められたものが正統なのだといういつの世にも変わらぬ事実を思わないではいられない。

K・B・レーダー「死刑物語」

古代から現代に至るまでの死刑の歴史を描いた本。決して猟奇趣味ではないが、読むと気分が悪くなる。焚刑だのギロチンだのといった過去のものから、絞首刑、電気椅子などといった今日使われている方法に至るまで、処刑の様子がじつに詳しい。凶悪な犯罪を犯した者には相応の罰を与えなければならない、という言い分はよく耳にするものだが、しかし、実際の処刑を少しでも思い浮かべてみたならば、それがいかに残酷なものかが分かるだろう。絞首しようが電気を流そうが、そしてやや意外なことにギロチンにかけようが、人の死というものは一瞬のうちにおとずれるわけではないらしい。断頭台の下から自分の胴体を見上げる罪人、という図を思い浮かべるのは悪趣味かもしれないが、死刑の是非を考えるには、そういうリアリティを抜きにして理屈だけで論じても仕方がない気がする。明治大学博物館では、ギロチンや鉄の処女、獄門台、磔柱などの展示をみることができるので、さらにリアルな想像をしたい人にはこちらもおすすめ。

林克明+大富亮「チェチェンで何が起こっているのか」

2002年のモスクワ劇場占拠事件は、もう忘れられてしまっただろうか。ロシアの特殊部隊が毒ガスを使って犯人グループを掃討したものの、129名もの人質が犠牲になってしまった事件である。犯人はチェチェン人。彼らはどういう連中なのか。
チェチェンは北コーカサスに位置する小国である。帝政以来400年にわたってロシアの軍事侵略に苦しめられ、スターリンの時代には民族ぐるみで辺境の地に強制移住させられて、住民の半数が犠牲になったとも言われている。こうした苦難の歴史は過去のものではなく、つい先ごろ2009年に終結したチェチェン戦争では、100万人足らずの人口のうち20万もの人の命が奪われた。それほどの非道が行われていながら、われわれはチェチェンについて何も知らない。
2015年以来、ロシアがシリアを執拗に空爆する背景には、チェチェン人のISへの参加があると言われている。こういう本を読んでしまうと、今日の世界のありさまは、テロは悪だという単純な図式では割り切れないことが分かってくる。

根本順吉+新田次郎「病める地球、ガイアの思想」

朝日出版社のレクチュア・ブックスの一冊。30年くらい前の本。副題は「汎気候学講義」。ともに気象台で働いていた二人の対談である。あまりに面白いので、この本をもとにラジオ番組が作られたこともある。「かつてサハラ砂漠は湿潤だった。それが6千年前に高気圧の圏内にすっぽり入ったために、雨が降らなくなってしまった。人々は水を求めてナイル川まで移動した。エジプト文明は彼らを奴隷として利用することによって成立したのだ」などという気候と文明の関係も面白いし、「昭和のはじめ、虹を観測することによって地震を予知し、「明日朝四時伊豆ニ地震有リ」と新聞社に電報を打って見事に的中させた人がいた」なんていう話もたまらない。この本ばかりでなく、魅力のある人たちの対談をずらりと並べたレクチュア・ブックスは本当にすごい企画だった。若いころの脳みそに、くっきりと刻印を残した本のひとつ。

川添裕「江戸の見世物」

江戸時代の見世物小屋の規模や迫力は、おそらくわれわれの想像をはるかに超えている。竹で人形を編んだ籠細工(かございく)がとくに人気だったと聞くだけではぜんぜん大したことがないように思えるが、とんでもない。なにしろ見世物小屋の規模は奥行きは40メートル、籠細工の大きさとなると小は2メートル、大は8メートルにも達したという。そうした巨大な英傑の人形が20も並んで頭上を圧し、見せ物の前では当代きっての話芸の達人が軽妙な口上を述べている、というぐあいなのだから、その華やかさ楽しさはどれほどのものだっただろう。百日の会期に数十万人もの人が押し寄せたというその熱狂は推して知るべしである。ほかにも珍しい動物あり、軽業あり、本物そっくりの生人形(いきにんぎょう)ありで、読むほどに、当時の沸き立つような興奮が伝わってくる。

デイヴィド・ダニエル「ウィリアム・ティンダル」

宗教改革といえば、ルターがカトリック教会に対して95ヶ条の抗議文をつきつけたことばかりが有名だが、このとき彼によって聖書がドイツ語に訳されたことも、負けず劣らず重要な意味を持つ。彼の訳業によって、ヨーロッパのキリスト教徒ははじめて自分たちの神の言葉を読むことができるようになったのだ。ウィリアム・ティンダルは、このルターにわずかに遅れて、はじめて聖書を英語に翻訳した人である。彼のみごとな翻訳は、英語そのものを洗練された言語に高め、シェイクスピア以上に英語の形成に影響を与えた、とも言われている。しかし生涯をかけて自国語の聖書を広めた功績によって彼に与えられたのは、こともあろうに異端の烙印と火あぶりの刑だった…。 翻訳は、田川建三。原著の誤りをひとつひとつ正す詳細な訳注が圧巻。ただ訳すだけに終わらせない学者としての良心に打たれる。読み物としては実はそれほど面白くないが、訳注とあとがきを読むだけでも9000円は惜しくない。

ジョン・クラカワー「荒野へ」

世を捨てて山の中に隠棲したい、と思うこと自体は珍しいことではない。しかし、優秀な成績で大学を卒業した若者が、すべての預金を慈善団体に寄付し、車を売り払い、果ては財布の中のお札までを焼き捨てて、まったく無一物となってアラスカの荒野に踏み入っていく、というのは尋常なことではない。それも世を悲観して死に場所を探していたのではなく、むしろ積極的に生きるために、未踏の地を求めて放浪し続けた、というのである。アラスカの過酷な大自然を前にしながら、持っていた地図さえ捨ててしまったというのだから、彼の行動はたしかに愚かだったと言うしかない。しかし何と無垢な愚かさだろう。登山家ジョン・クラカワーによる共感と哀惜に満ちた語り口が胸を打つ。原題は”Into the Wild”。