月別アーカイブ: 2015年7月

林望「恋の歌、恋の物語」

副題は「日本古典を読む楽しみ」。まさに古典を楽しむためのヒントが満載である。なかでも和歌は本来声に出して朗々と歌った、という指摘には、今さらながら目を開かれる思いがした。たとえば「風吹けば」という一句なら、「かぜーふけばーーーーーーぁあぁ」ってな具合にゆったりと詠んでいく。するとその間に、聞く者の心の中には「風が吹く」というイメージが横溢してくる。そうしておいてまた「峰に分かるる」と来ると、聞く人の心のなかには、京の都の周囲に立ち並ぶ峰峰が想起されたに違いない、なんて言われると、たしかに歌を耳にしながら、次々に頭のなかで映像を思い浮かべていたであろう当時の人たちの有り様が想像できるような気がしてくる。なるほど和歌をささっと黙読するのは、音楽を早回しで聴くようなものだったか。世に古典案内の本は多いが、こういう当たり前のことを教えてくれる本は少ない。

中勘助「ちくま日本文学全集」

こどもの頃の懐かしいあれこれを、こどもの心そのままに綴ったような「銀の匙」。奇跡のようにうつくしく静かなこの作品を、これまで何度読み返したろう。
ところが筑摩書房の編んだ本作品集では「銀の匙」と「妹の死」に続いて「犬」が配されている。「銀の匙」の無垢な世界に染まったあとで、どろどろの業を描いた「犬」を読む気分は、違和感というよりいっそ不快感に近い。人の業の深さを描いてみたい気持ちは分かる。岩波文庫とは違うんだぜという編集者の心意気も分かる。でも、中勘助が好きで、その中でもとくに「犬」が好きという人などいるはずがない。

E・Hゴンブリッチ「美術の歩み」

美術史の本として、これほど読みやすく面白い読み物をほかに知らない。14世紀にジォットが出るまでは、絵描きは職人としか見なされず、どんな名匠も後世に名が残されることはなかったとか、ブルネレスキが遠近法を発見するまでは誰も地平線に消えるまで先細りに続いていく並木を描くことができなかった、などといった意外なエピソードの面白さもさることながら、絵画や建築の変遷を語りつつ、人間の意識そのものの移り変わりをゆったりと描く筆致がすばらしい。

今泉吉晴「空中モグラあらわる」

ネズミ、モグラ、リス、ムササビなど、比較的身近な動物の生態をくわしく紹介した本。すべての動物は資源が豊富な人間の世界に入り込もうとしているが、それに成功した動物はわずかに三種のネズミだけ、いわば家ネズミは動物界の英雄なのだ、なんていう書きぶりがいい。表題は、金網をまるめてパイプ状にして張りめぐらせ、その中でモグラを飼って生態を観察したことにちなむ。この素晴らしい本が売れないとしたら、それはタイトルと表紙のせいだろう。何とかしてやってくれ。

若桑みどり「絵画を読む」

イコノロジー(図象解釈学)の入門書。カラバッジョの「果物籠」はなぜテーブルからはみ出して描かれているのか。籠の中のリンゴはどうして虫に食われ、葉っぱは生気を失い萎びているのか。一見何でもない果物籠だが、そこには若さはやがて衰え、快楽はやがて退廃するという寓意が込められているのだという。だからカラバッジョの「一枚の静物画は一枚の聖母画にひとしい」という言葉は、静物画にも芸術的な価値があるというなどという意味ではない。この頃の絵はただの写真の代わりではなく、見て楽しむ飾り物だっただけでもなく、深遠なメッセージを含んだイコンだったのだ。絵は知識ではなく無垢な感性をもって味わうものだ、という素朴な芸術観を打ち破る刺激に満ちた一冊。「絵画を読む」とは、なるほどうまいタイトルだ。

白川静「漢字」

漢字がどのようにできたのかという話になると、一般的には「山」は山の形をかたどって作られた、なんていう説明をされることが多い。しかしこれでは個々の字の成り立ちは説明できても、なぜ漢字が生まれたのかという疑問に答えたことにはならない。白川文字学では、漢字は人に何かを伝える道具としてではなく「ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして」生まれた、とする。そういうことを頭に入れて読むと、「道」という字が敵の首を携えてゆくことを意味するとか、「伏」の字は敵の呪詛を避けるために犬を埋めることをあらわすといった説明が、すんなり納得できる。身近な漢字から古代の人たちの精神世界がここまで透けて見えるとは、まったく驚くしかない。

保阪正康編「50年前の憲法大論争」

1956年の衆議院での公聴会の議事録である。議事録そのものだから、新聞やテレビやネットの記事とは違って書き手の編集が紛れ込んでおらず、自分の頭で判断しながら読めるのがありがたい。
今日の特定秘密保護法や安保法制をめぐる議論が、60年近く前にほぼ同じ形でなされていたことがよく分かる。憲法改正に反対する戒能通孝は、「内閣には憲法改正を提案する権限がない」「国務大臣は憲法擁護の義務を負っている」という指摘をし、中村哲は憲法改正案は「基本的人権を旧憲法時代に戻す」「再軍備のため」のものと批判する。今と驚くほど変わっていない。改憲護憲いずれの立場であっても、議論の根底に横たわっているのは、日本は敗戦国でありアメリカの意向からは自由でいられないという事実である。今もなお、この事実を抜きにして憲法や安全保障を語ることはできない。

高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」

今週中にも安保法案が可決されようとしている。国民の大多数が反対していても、学者の大多数が意見とみなしても、いわば何となく、まあいいじゃないか的ないい加減さで、今まさに、とてつもなく大きな転換がなされようとしている。本書は、社会がこのようにじわじわと変容してきた様をさまざまな視点から考察しているが、その底にあるのは怒りというより悲しみのようだ。冷たい分析ではなく、熱い扇動でもない。ただ良心にしたがって、ありのままを悲しみつつ書いているような印象を受ける。
良くも悪くも「論壇時評」がもとになっているだけに、一つ一つの文章が短く、引用も多い。こうした形態で語れるのは、ごく表層のことだけだろう。この人が存分に語ることばを聞いてみたい。

川北稔「砂糖の世界史」

紅茶といえばイギリスだが、じつはイギリス国内では、ひとつまみの茶も砂糖も採ることはできない。彼らの贅沢を支えたのは、ほかでもない広大な植民地と無数の奴隷の命だった。
カリブ海の島々は一面の砂糖きび畑となり果て、現地の人たちが自分の食べる食糧すら作れないありさまに変えられてしまった。先住民は根こそぎにされ、アフリカからかり集められた奴隷は昼夜の別なく働かされた。今日極貧にあえぐ発展途上国の原型は、こうして作られたというわけだ。砂糖というモノを通して、白人が積み上げてきた凄惨な歴史が浮かび上がる。

水野敬三郎「奈良・京都の古寺めぐり」

岩波ジュニア新書。副題は「仏像の見かた」。このシリーズには優れた作品が多い。仏像の種類や見分け方を紹介するだけでなく、仏像の様式がどのように伝播してきたかとか、金銅仏、木彫、塑像、乾漆造など制作方法についての説明も詳しく、分かりやすい。この本のおかげで、仏像を見るのがほんとうに楽しくなった。芸術は心で感じるものかもしれないが、知らないと味わえないことも多い。知識は決して鑑賞の妨げにならない。