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ジョン・クラカワー「荒野へ」

世を捨てて山の中に隠棲したい、と思うこと自体は珍しいことではない。しかし、優秀な成績で大学を卒業した若者が、すべての預金を慈善団体に寄付し、車を売り払い、果ては財布の中のお札までを焼き捨てて、まったく無一物となってアラスカの荒野に踏み入っていく、というのは尋常なことではない。それも世を悲観して死に場所を探していたのではなく、むしろ積極的に生きるために、未踏の地を求めて放浪し続けた、というのである。アラスカの過酷な大自然を前にしながら、持っていた地図さえ捨ててしまったというのだから、彼の行動はたしかに愚かだったと言うしかない。しかし何と無垢な愚かさだろう。登山家ジョン・クラカワーによる共感と哀惜に満ちた語り口が胸を打つ。原題は”Into the Wild”。

大森荘蔵「流れとよどみ」

若い頃、無謀にも哲学に憧れた時期がある。そのときすぐに気づいたことは、日本人が書いた哲学の本というのが、ほとんど見あたらないということだった。ヨーロッパの思想を紹介した本はたくさんあったが、引用に頼らず、自分で言葉を積み上げながら考え抜こうとしている本とはあまり出会うことができなかった。その中で大森荘蔵は、世界と私、とか、過去・現在・未来、という当たり前の構図をごっそり考え直すという大仕事を、自分の言葉で行おうとした稀有な人だったと思う。もやもやとした像にくっきりした形を与えるたったひとつの言葉を求めるその姿勢には、誰かの学説を紹介し、ところどころ批判してみることで何ごとかを語ったような顔をしている学者とはまったく違った迫力がある。ふだんわれわれは、「見えるってことは、目に入った光が電気信号になって脳に伝わるってことでしょ」なんて片づけているが、こういう本を読み返してみると、網膜に映っている小さな像がはるか向こうに広がって見えている不思議を、もうちょっと考えてもいいような気がしてくる。