月別アーカイブ: 2015年8月

篠田統「中国食物史」

中国の歴史を食生活の変化によってたどる労作。そもそもこの本を読んだのは、この人と開高健との対談に食人の話がでてきて、それがたいそう面白かったからだ。食人というのは、飢餓の極限的な状況の中で行われるのでなければ、恨みを晴らすのに相手の肝を食うとか、ありがたい聖人様の力に預かろうと遺体を食べてしまうとか、きまって呪術的な意味合いが含まれていると思っていたが、そうではないらしい。本書によれば、唐代以降、趣味嗜好としての食人の例がいくらでもあるという。いや四本足のものは机以外何でも食い、二本足のものは親以外なんでも食うという評は、あながちウソでもないか。食人の話は三百数十ページのうち5ページくらいだが、ほかのところはきわめて良質でまともな食物史。軽妙な筆致でぐいぐい読ませる。食べ歩き番組より断然おもしろい。

織田正吉「絢爛たる暗号」

百人一首はカルタで遊ぶこともあり、学校で暗唱させられることもあって、わが国でぶっちぎりに有名な詞華集である。ところが冷静に見ると、不審な点が少なくない。類歌がやたらと多かったり、さほど有名とは言えない歌人が入っていたり、藤原定家が好んだとも思えない凡庸な歌が選ばれていたりする。たとえば西行からよりによって「かこち顔なるわが涙かな」を採るなんて、どうも変ではないか。本書はこういう謎に真っ向から挑んだ本である。古典の謎解きというと、万葉集が韓国語で読めるだの、聖書には暗号が隠されているだのといったトンデモ本も確かに多いが、これは信じてよい本だと思った。

大野晋「日本語の文法を考える」

高校の古文という科目は評判が悪い。理由は明快、つまらないからである。とくに文法というのは今も昔も見事なほどつまらない。で、この本を読むと、つまらない原因の過半は教える側の不勉強にあるのだろうと見当がつく。なにしろこいつは文法の本のくせにやたらと面白いのだ。たとえば推量の助動詞の説明は、むかしの日本人の時間の概念から始まって、ほとんど謎解きのようである。動詞の活用形はこうこうこのような変遷をたどっているから、何百年たったら日本語の活用はこのようになっているだろう、なんて大胆に推論をするくだりにもわくわくする。国語の教師はこの本を読んで、歴史的な言葉を扱うには歴史的な視点が必要だという当たり前のことを学ぶがよろしい。

夏目漱石+金井田英津子「夢十夜」

漱石が実際に見た夢を題材に書いたという十話からなる短編集。夢の話だから当たり前だが、実に不思議な感じのする作品だ。文豪の心をおおう深い闇を、ほんの少しのぞいたような心持ちになる。
ところでこの本は、誰もが知っている「夢十夜」ではない。漱石の文章にはもちろん何の手も加えられていないが、版画家金井田英津子の挿画と装丁によって、すっかり新しい作品が生まれかわっている。これはちょうど音楽が、照明や振り付けを加えることでまったく違った様子を見せるのに似ている。文章だけでじぶんなりのイメージを楽しみたい人の好みには合わないかもしれないが、原文と調和しながらも、まったく新しく、不思議な世界を作り上げた手際は見事。パロル舎はいい本を作る。

別役実「道具づくし」

身近な、あるいは失われてしまった道具の数々を紹介する本。「うどんげ」とは、ごく稀にうどんに生える毛のことであり、「徒然草」は「とぜんそう」という幻覚作用のある草なのだという。吉田兼好はこの芳香に夢うつつとなりながら書いたのだから、徒然草という作品は、大麻でも吸ってその幻覚下で読まないと真の良さは分からない、という。著者には他に「虫づくし」「もののけづくし」もあるが、くだらなさ、もっともらしさともに、この作品がいちばん。虚構新聞に先立つこと20年、いつの世にもこういう人はいるものである。一気に読むと飽きるので、少しずつ読むのが吉。

ロバート・K・G・テンプル「中国の科学と文明」

中国というのはすごい国だ。われわれが何となく「進んだ西洋のもの」と思いこんでいる発明・発見の多くは、実は中国でなされたものなのだ。F.ベーコンの言葉によって有名になった「紙・火薬・羅針盤」だけでない。17世紀のヨーロッパに農業革命をもたらした鉄製のすきは中国でははやくも紀元前6世紀に使われていた。向かい風でも帆走できる船は、中国で作られてから1300年もたってやっと西洋にもたらされた。円周率を小数十位まで計算したのは西洋人よりも1200年早く、二項係数を求める「パスカルの三角形」ですら、パスカルに先立つこと500年には発見されていた。これほど進んでいた国がどこでどうして凋落してしまったのか、今度はその秘密を知りたくなってくる。

吉田武「虚数の情緒」

索引も含めると千ページにも達する数学の本。副題は「中学生からの全方位学習法」。「人類文化の全体的把握を目指した独習書」というだけあって、教育論から歴史(歴代天皇生没年まで載っている)、文学、スポーツまで、その書きっぷりは縦横無尽である。数学書なので数学の話題が中心なのはもちろんだが、「人として大事なことは何でも教えたい」というような姿勢だから、著者が論じる範囲は数学教育の枠をはるかに超えてしまう。これを不遜だ、独善的だと嫌う人もいるだろうが、そんな批判をものともしない志を感じる。何ごとも細分化・専門化される一方の現代社会に、まだこんな人が生き残っているのか。

佐竹昭広「文明開化と民間伝承」

明治維新がふつうに生きる人たちにもたらしたものは、新しい時代を迎える浮き立つような希望などではなかった。あらゆるものが変わってしまう不安がさまざまな噂を生み、噂は流言蜚語となって広がった。戸籍の整備は人身売買の準備だと信じられ、異人に売られた者は血を抜かれ膏をとるために火であぶり殺される、とされた。これらの噂が受け入れられ、はるか遠くまで広まってゆく背景には、想像力の共通基盤としての伝承=民話があった、というのが佐竹氏の考察である。さきに取り上げた「逝きし世の面影」と比べると、同じ時代を描いたとは思えないほどの違いに驚く。岩波ライブラリー「酒呑童子異聞」に収録。

渡辺京二「逝きし世の面影」

文化は継承されるが、文明は滅びる。18世紀初頭から19世紀まで続いた日本の文明は、明治の半ばを過ぎるころには、跡形もなく消え去ってしまった。かつて日本を訪れた外国人は、この国の無垢で開放的で礼儀正しい人たちに接して、みな感嘆の声をあげ、「地上の天国の天真爛漫さ」とまで評したという。たしかにどこの家も開けっ放しで中は丸見え、興を感じた外国人が上がり込んでも怖がることもなく歓待してくれるとなれば、それも当然だろう。好奇の目ではなく、自分達が持ち込んだ「近代文明」によって滅んでいく美しい世界を、惜しみ懐かしむようなかれらの眼差しが印象に残る。一読すれば忘れられない名著。