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大森荘蔵「流れとよどみ」

若い頃、無謀にも哲学に憧れた時期がある。そのときすぐに気づいたことは、日本人が書いた哲学の本というのが、ほとんど見あたらないということだった。ヨーロッパの思想を紹介した本はたくさんあったが、引用に頼らず、自分で言葉を積み上げながら考え抜こうとしている本とはあまり出会うことができなかった。その中で大森荘蔵は、世界と私、とか、過去・現在・未来、という当たり前の構図をごっそり考え直すという大仕事を、自分の言葉で行おうとした稀有な人だったと思う。もやもやとした像にくっきりした形を与えるたったひとつの言葉を求めるその姿勢には、誰かの学説を紹介し、ところどころ批判してみることで何ごとかを語ったような顔をしている学者とはまったく違った迫力がある。ふだんわれわれは、「見えるってことは、目に入った光が電気信号になって脳に伝わるってことでしょ」なんて片づけているが、こういう本を読み返してみると、網膜に映っている小さな像がはるか向こうに広がって見えている不思議を、もうちょっと考えてもいいような気がしてくる。

柳田国男「山の人生」

深山にすみ、里の人たちとはほとんど交渉を持たずに暮らしていた人々についての伝承や奇譚を集めた本。かつて天狗の存在が信じられた背景には、彼ら先住異族の<存在>があったことは言うまでもない。柳田国男は本書を最後に山人について語るのをやめてしまうが、ここでは巨大な山男の話、神隠しの話、気の触れた女が山に入ったいくつもの例など、興味深い話が続く。中でもとりわけ印象に残るのは、序文のかわりに残された一文だ。貧しい父親を不憫に思って、口減らしのためにすすんで殺された小さな兄妹の記録である。戸口の前で自分のいのちを差し出すために大きな斧を研ぐふたりに、秋の日がいっぱいに射している。その描写の哀れさ美しさは、一度読めばとうてい忘れられるものではない。

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」

80年前に書かれた少年のための人生読本。15歳の少年コペル君がさまざまな経験を通して道徳を考え、生産関係に気づき、自分の弱さに打ちひしがれながら、人間的な成長を遂げていく物語。物語といっても、ここで本当に語られているのはストーリーではなく、人としての生き方である。何ごとにもまっすぐ向き合い、とことん考えようとするコペル君も、大人の知恵をもって常に彼を支える叔父さんも、今となっては「ありえない」人になってしまった。一時流行した「なぜ人を殺してはいけないのか」などという不毛な問いを思い出すにつけ、こんなにまっすぐ人としての生き方を語れた時代が羨ましくなってしまう。

池田晶子「14歳からの哲学」

前回取り上げた永井均の本は、考えることを楽しむというような軽いスタンスが身上だったが、対するこちらはずっと熱い。本気でいろいろなことを考え抜こうとする人には、これほどすぐれた入門書はあるまい。哲学を語りながら、冷徹な論理だけでないところが好もしい。ゴッホは生活の苦しさなど問題にしていなかった、なぜなら絵を描くのでなければ生活する理由などなかったからだ、なんて書きぶりが、安定だけを志向する小さな道徳観を強く揺さぶる。「個性的であるということと、人と違おうとするということとは、まったく逆のことなんだ」というくだりを読んで、自分探しとやらに迷い込んでしまっている人たちに、聞かせてやりたくなった。

永井均「子どものための哲学対話」

前著「<子ども>のための哲学」とは違い、この本はどうやら本当の子どもを対象にしているらしい。ある正しい答えを教えるのではなく、問いを問いのままぶつけ、子どもにものを考えさせようという目論見の本である。明快な結論=安っぽい道徳を並べた本ではないから、覚悟を決めて向かい合わない限り、どこを読んでも宙ぶらりんの気分にさせられてしまう。正解のインプットとアウトプットだけに明け暮れている「賢い」子どもたちにとって、こういう読書は想定の範囲外だろう。かつて売れに売れた「ソフィーの世界」は哲学ではなく哲学史の本だったが、こいつは読み手の力量次第では、ほんとうに哲学の本になりうる作品だと思う。

阿部謹也「刑吏の社会史」

中世のヨーロッパにおいて、刑罰というのは犯罪者を罰するためのものというよりは、犯罪によって損なわれた社会秩序をもとに戻すための供犠の儀式だった。その聖なる儀式を執行をする刑吏は、当然のことながら高い地位にあったが、やがて社会の諸相の変化によって、だんだん賤民視されるようになってしまう。賤民として徹底的に差別される刑吏は、しかし一方では、賤業を独占することによって経済的な豊かさを手に入れていく…。
本書で紹介される事例の多くは、中世ヨーロッパだけでなく、世界中に見られるものである。たとえば犯罪者を波間に流すという刑罰はヨーロッパだけでなく中国でも行われたし、皮剥ぎなどの仕事が差別につながった歴史は日本でもまったく同じである。差別階級でありながら格式1万石、財力5万石と言われた弾左衛門の存在も、中世ヨーロッパと共通する。社会の成り立ちを通して人というものを考えるための、非常に多くのヒントを含んだ名著。

E・P・エヴァンズ「殺人罪で死刑になった豚」

表題から分かるとおり「動物裁判」の本である。動物裁判というのは、動物を人間と同じように裁判にかけ刑を執行することで、中世から19世紀にかけて、ヨーロッパでさかんに行われた。裁きの対象は四つ足の動物だけでなく、イナゴや毛虫やシラミ、さらには謀反の合図に使われた鐘、倒れて人を押しつぶした銅像などにも及んだ。これは冗談でも何でもなく、昆虫を被告にした裁判であってもきちんと弁護人が立てられ、大真面目に弁論がなされたのである。きっとその当時から、これをばかばかしいと思っていた人は多かったろう。しかし神の名のもとに行われる神聖な裁判を誰が非難できただろう。こんな裸の王様ばりの滑稽なことが何百年も続いただなんて、さぞ重苦しい時代だったんだろうなあ。

篠田統「中国食物史」

中国の歴史を食生活の変化によってたどる労作。そもそもこの本を読んだのは、この人と開高健との対談に食人の話がでてきて、それがたいそう面白かったからだ。食人というのは、飢餓の極限的な状況の中で行われるのでなければ、恨みを晴らすのに相手の肝を食うとか、ありがたい聖人様の力に預かろうと遺体を食べてしまうとか、きまって呪術的な意味合いが含まれていると思っていたが、そうではないらしい。本書によれば、唐代以降、趣味嗜好としての食人の例がいくらでもあるという。いや四本足のものは机以外何でも食い、二本足のものは親以外なんでも食うという評は、あながちウソでもないか。食人の話は三百数十ページのうち5ページくらいだが、ほかのところはきわめて良質でまともな食物史。軽妙な筆致でぐいぐい読ませる。食べ歩き番組より断然おもしろい。

織田正吉「絢爛たる暗号」

百人一首はカルタで遊ぶこともあり、学校で暗唱させられることもあって、わが国でぶっちぎりに有名な詞華集である。ところが冷静に見ると、不審な点が少なくない。類歌がやたらと多かったり、さほど有名とは言えない歌人が入っていたり、藤原定家が好んだとも思えない凡庸な歌が選ばれていたりする。たとえば西行からよりによって「かこち顔なるわが涙かな」を採るなんて、どうも変ではないか。本書はこういう謎に真っ向から挑んだ本である。古典の謎解きというと、万葉集が韓国語で読めるだの、聖書には暗号が隠されているだのといったトンデモ本も確かに多いが、これは信じてよい本だと思った。

大野晋「日本語の文法を考える」

高校の古文という科目は評判が悪い。理由は明快、つまらないからである。とくに文法というのは今も昔も見事なほどつまらない。で、この本を読むと、つまらない原因の過半は教える側の不勉強にあるのだろうと見当がつく。なにしろこいつは文法の本のくせにやたらと面白いのだ。たとえば推量の助動詞の説明は、むかしの日本人の時間の概念から始まって、ほとんど謎解きのようである。動詞の活用形はこうこうこのような変遷をたどっているから、何百年たったら日本語の活用はこのようになっているだろう、なんて大胆に推論をするくだりにもわくわくする。国語の教師はこの本を読んで、歴史的な言葉を扱うには歴史的な視点が必要だという当たり前のことを学ぶがよろしい。