月別アーカイブ: 2015年7月

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」

おじさんたちが語りたがるありがちな若者論がいかに根拠のないものかを、さまざまなデータに基づいて教えてくれる。インターネットのおかげで、認められたい欲求が満たされるようになった若者が、小さな世界の中で充足するのは当然だし、むしろ向上心とやらによって良いものを果てもなく求め続けるよりも、よほど幸せに近い生き方なのだと思わされた。
「『日本』がなくなっても、かつて『日本』だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。」
などという歯に衣着せぬというか、身も蓋もない言い方が痛快。脚注も秀逸。
軽快な文体に乗せられて、あっという間に読んでしまった。

川田絢音「悲鳴」

80ページ足らずの薄い詩集だが、ひとつひとつの作品と向かい合うには、これくらいのものがいい。読み飛ばすにはあまりにも濃密だ。ことばに滲む深い孤独と冷徹な情熱から目を離すことができない。多くは誰かと一緒にいる情景が描かれているが、そのために、孤独はいっそう深い。大きな声で叫ぶのでもなく、うずくまって泣くのでもなく、感傷にふけるのでもない。ひとり異郷にあるためだけでなく、こころと身体も離れ離れになってしまったような、帰るところのない孤独。夜の冷たい石畳の感触が、まだ残っているような気さえする。

長谷川宏+谷川俊太郎「魂のみなもとへ」

哲学者の長谷川宏が谷川俊太郎の詩を選び、そのひとつひとつにエッセイを添える、というちょっと変わった趣向の本。長歌とそれにたいする反歌のように互いが共鳴し合っているような作品もあれば、歌会の題詠のように同じテーマでまったく違った世界を描いているのもあって、なかなか楽しい。相手に気をつかってヨイショしていないところがいい感じである。ちなみに長谷川宏の奥さんは、あの名作絵本「めっきらもっきらどおんどん」の長谷川摂子だそうだ。なんだかビックリ。

加藤徹「漢文力」

基本的に「中国古典に学ぶリーダーの生き方」のような本は安っぽくて嫌いなのだが、この本はよかった。著者の懐の深さを感じる。キティちゃんや松田優作や金子みすずやブレヒトが、荘子や老子を読み解くヒントとしてごく自然に登場するのが楽しい。どのページも退屈するところはないが、なかでも古代の中国では「戦争の手段として黄河の堤防を切らない」という条約が作られていて、それが二千六百年間も守られ続けた、という話には驚いた。ちなみにその条項が破られたのは1938年。中国軍が日本軍の進撃を食い止めるために堤を切り、数十万人もの犠牲者を出したとか。長い歴史を歩んできているわりに、人間というものがちーとも利口になっていないのが、ちょっと悲しい。

渡邊十絲子「今を生きるための現代詩」

今年読んだ新書の中で、飛び抜けて優れた一冊。居酒屋の看板やマンションの広告にならぶ文言や、やたらと人を励ましたり癒やしたりするはやりの歌のコトバとは違った、ほんとうの詩の世界を見せてくれる。詩人が詩を解説すると解説する言葉までが詩のようになってしまい、けっきょく何も伝わってこないことが多いが、この本にはそういうところがない。詩を読むという行為をこれほど丁寧に体験させてくれる本は貴重だ。現代詩は、ただ奇をてらっただけの無意味な言葉の羅列ではないということを、はじめて納得させてくれた。

波多野精一「西洋哲学史要」

明治34年に書かれた哲学史の名著。「かくのごとき明々白々たる矛盾を発見するには必ずしも炯眼と達識を要せざるなり。しかもカントの大頭脳にしてその矛盾に陥りて恬然たりしものは何ぞ」なんていう名調子にしびれる。この本には最近、現代語に書き直されたバージョンが出ていて、そちらを参照しながら読むと分かりやすいが、文章そのものの力という点では、やっぱりオリジナルに及ばない。文語の強さと格調の高さに惹かれ、音楽を聴くように読んでしまった。

アダム・カバット「妖怪草子・くずし字入門」

何年か前に、くずし字が読めたらさぞ楽しかろうと思って、林英夫の「おさらい 古文書の基礎」を買ったことがある。いきなり候文を読むというのはさすがに難しく、読み始めて早々に挫折してしまった。その点この本は取っ付きやすい。題材は、漢字ばかりの候文ではなくひらがなだらけの黄表紙である。妖怪の挿し絵もいっぱいで、親しみやすいことこの上ない。
見ての通り著者はアメリカ人である。アメリカ生まれのアメリカ人が、日本語の古文をくずし字で読んでしまうという事実にまず圧倒される。勉強していない日本人よりも、勉強しているアメリカ人のほうが、はるかに日本語を知っているというのは、当たり前といえば当たり前のことなのだが、勉強の持つ力の大きさを改めて思い知らされる。
今日はひらがなの「か」と「は」を覚えた。

橋本治「絵本 徒然草」

橋本治の本は、ちゃんと読めば面白いんだろうな、と思いながらもなかなか乗れず、結局おもしろくないまま途中で投げ出すことが多い。しかし、これは文句なしの傑作。かの徒然草に現代語訳と兼好の語りによる背景説明を加えた本、といっても面白さは伝わらないだろうから、有名な「つれづれなるままに…」の橋本訳を紹介しよう。

「退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんでくるどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!」

なるほど、徒然草というのは、七百年たった今でこそりっぱな古典だけれど、当時としては今のことを書いた生身の文章だったんだねえ。