若桑みどり「絵画を読む」

イコノロジー(図象解釈学)の入門書。カラバッジョの「果物籠」はなぜテーブルからはみ出して描かれているのか。籠の中のリンゴはどうして虫に食われ、葉っぱは生気を失い萎びているのか。一見何でもない果物籠だが、そこには若さはやがて衰え、快楽はやがて退廃するという寓意が込められているのだという。だからカラバッジョの「一枚の静物画は一枚の聖母画にひとしい」という言葉は、静物画にも芸術的な価値があるというなどという意味ではない。この頃の絵はただの写真の代わりではなく、見て楽しむ飾り物だっただけでもなく、深遠なメッセージを含んだイコンだったのだ。絵は知識ではなく無垢な感性をもって味わうものだ、という素朴な芸術観を打ち破る刺激に満ちた一冊。「絵画を読む」とは、なるほどうまいタイトルだ。

白川静「漢字」

漢字がどのようにできたのかという話になると、一般的には「山」は山の形をかたどって作られた、なんていう説明をされることが多い。しかしこれでは個々の字の成り立ちは説明できても、なぜ漢字が生まれたのかという疑問に答えたことにはならない。白川文字学では、漢字は人に何かを伝える道具としてではなく「ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして」生まれた、とする。そういうことを頭に入れて読むと、「道」という字が敵の首を携えてゆくことを意味するとか、「伏」の字は敵の呪詛を避けるために犬を埋めることをあらわすといった説明が、すんなり納得できる。身近な漢字から古代の人たちの精神世界がここまで透けて見えるとは、まったく驚くしかない。

保阪正康編「50年前の憲法大論争」

1956年の衆議院での公聴会の議事録である。議事録そのものだから、新聞やテレビやネットの記事とは違って書き手の編集が紛れ込んでおらず、自分の頭で判断しながら読めるのがありがたい。
今日の特定秘密保護法や安保法制をめぐる議論が、60年近く前にほぼ同じ形でなされていたことがよく分かる。憲法改正に反対する戒能通孝は、「内閣には憲法改正を提案する権限がない」「国務大臣は憲法擁護の義務を負っている」という指摘をし、中村哲は憲法改正案は「基本的人権を旧憲法時代に戻す」「再軍備のため」のものと批判する。今と驚くほど変わっていない。改憲護憲いずれの立場であっても、議論の根底に横たわっているのは、日本は敗戦国でありアメリカの意向からは自由でいられないという事実である。今もなお、この事実を抜きにして憲法や安全保障を語ることはできない。

高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」

今週中にも安保法案が可決されようとしている。国民の大多数が反対していても、学者の大多数が意見とみなしても、いわば何となく、まあいいじゃないか的ないい加減さで、今まさに、とてつもなく大きな転換がなされようとしている。本書は、社会がこのようにじわじわと変容してきた様をさまざまな視点から考察しているが、その底にあるのは怒りというより悲しみのようだ。冷たい分析ではなく、熱い扇動でもない。ただ良心にしたがって、ありのままを悲しみつつ書いているような印象を受ける。
良くも悪くも「論壇時評」がもとになっているだけに、一つ一つの文章が短く、引用も多い。こうした形態で語れるのは、ごく表層のことだけだろう。この人が存分に語ることばを聞いてみたい。

川北稔「砂糖の世界史」

紅茶といえばイギリスだが、じつはイギリス国内では、ひとつまみの茶も砂糖も採ることはできない。彼らの贅沢を支えたのは、ほかでもない広大な植民地と無数の奴隷の命だった。
カリブ海の島々は一面の砂糖きび畑となり果て、現地の人たちが自分の食べる食糧すら作れないありさまに変えられてしまった。先住民は根こそぎにされ、アフリカからかり集められた奴隷は昼夜の別なく働かされた。今日極貧にあえぐ発展途上国の原型は、こうして作られたというわけだ。砂糖というモノを通して、白人が積み上げてきた凄惨な歴史が浮かび上がる。

水野敬三郎「奈良・京都の古寺めぐり」

岩波ジュニア新書。副題は「仏像の見かた」。このシリーズには優れた作品が多い。仏像の種類や見分け方を紹介するだけでなく、仏像の様式がどのように伝播してきたかとか、金銅仏、木彫、塑像、乾漆造など制作方法についての説明も詳しく、分かりやすい。この本のおかげで、仏像を見るのがほんとうに楽しくなった。芸術は心で感じるものかもしれないが、知らないと味わえないことも多い。知識は決して鑑賞の妨げにならない。

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」

おじさんたちが語りたがるありがちな若者論がいかに根拠のないものかを、さまざまなデータに基づいて教えてくれる。インターネットのおかげで、認められたい欲求が満たされるようになった若者が、小さな世界の中で充足するのは当然だし、むしろ向上心とやらによって良いものを果てもなく求め続けるよりも、よほど幸せに近い生き方なのだと思わされた。
「『日本』がなくなっても、かつて『日本』だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。」
などという歯に衣着せぬというか、身も蓋もない言い方が痛快。脚注も秀逸。
軽快な文体に乗せられて、あっという間に読んでしまった。

川田絢音「悲鳴」

80ページ足らずの薄い詩集だが、ひとつひとつの作品と向かい合うには、これくらいのものがいい。読み飛ばすにはあまりにも濃密だ。ことばに滲む深い孤独と冷徹な情熱から目を離すことができない。多くは誰かと一緒にいる情景が描かれているが、そのために、孤独はいっそう深い。大きな声で叫ぶのでもなく、うずくまって泣くのでもなく、感傷にふけるのでもない。ひとり異郷にあるためだけでなく、こころと身体も離れ離れになってしまったような、帰るところのない孤独。夜の冷たい石畳の感触が、まだ残っているような気さえする。

長谷川宏+谷川俊太郎「魂のみなもとへ」

哲学者の長谷川宏が谷川俊太郎の詩を選び、そのひとつひとつにエッセイを添える、というちょっと変わった趣向の本。長歌とそれにたいする反歌のように互いが共鳴し合っているような作品もあれば、歌会の題詠のように同じテーマでまったく違った世界を描いているのもあって、なかなか楽しい。相手に気をつかってヨイショしていないところがいい感じである。ちなみに長谷川宏の奥さんは、あの名作絵本「めっきらもっきらどおんどん」の長谷川摂子だそうだ。なんだかビックリ。

加藤徹「漢文力」

基本的に「中国古典に学ぶリーダーの生き方」のような本は安っぽくて嫌いなのだが、この本はよかった。著者の懐の深さを感じる。キティちゃんや松田優作や金子みすずやブレヒトが、荘子や老子を読み解くヒントとしてごく自然に登場するのが楽しい。どのページも退屈するところはないが、なかでも古代の中国では「戦争の手段として黄河の堤防を切らない」という条約が作られていて、それが二千六百年間も守られ続けた、という話には驚いた。ちなみにその条項が破られたのは1938年。中国軍が日本軍の進撃を食い止めるために堤を切り、数十万人もの犠牲者を出したとか。長い歴史を歩んできているわりに、人間というものがちーとも利口になっていないのが、ちょっと悲しい。