漱石が実際に見た夢を題材に書いたという十話からなる短編集。夢の話だから当たり前だが、実に不思議な感じのする作品だ。文豪の心をおおう深い闇を、ほんの少しのぞいたような心持ちになる。
ところでこの本は、誰もが知っている「夢十夜」ではない。漱石の文章にはもちろん何の手も加えられていないが、版画家金井田英津子の挿画と装丁によって、すっかり新しい作品が生まれかわっている。これはちょうど音楽が、照明や振り付けを加えることでまったく違った様子を見せるのに似ている。文章だけでじぶんなりのイメージを楽しみたい人の好みには合わないかもしれないが、原文と調和しながらも、まったく新しく、不思議な世界を作り上げた手際は見事。パロル舎はいい本を作る。
別役実「道具づくし」
身近な、あるいは失われてしまった道具の数々を紹介する本。「うどんげ」とは、ごく稀にうどんに生える毛のことであり、「徒然草」は「とぜんそう」という幻覚作用のある草なのだという。吉田兼好はこの芳香に夢うつつとなりながら書いたのだから、徒然草という作品は、大麻でも吸ってその幻覚下で読まないと真の良さは分からない、という。著者には他に「虫づくし」「もののけづくし」もあるが、くだらなさ、もっともらしさともに、この作品がいちばん。虚構新聞に先立つこと20年、いつの世にもこういう人はいるものである。一気に読むと飽きるので、少しずつ読むのが吉。
ロバート・K・G・テンプル「中国の科学と文明」
中国というのはすごい国だ。われわれが何となく「進んだ西洋のもの」と思いこんでいる発明・発見の多くは、実は中国でなされたものなのだ。F.ベーコンの言葉によって有名になった「紙・火薬・羅針盤」だけでない。17世紀のヨーロッパに農業革命をもたらした鉄製のすきは中国でははやくも紀元前6世紀に使われていた。向かい風でも帆走できる船は、中国で作られてから1300年もたってやっと西洋にもたらされた。円周率を小数十位まで計算したのは西洋人よりも1200年早く、二項係数を求める「パスカルの三角形」ですら、パスカルに先立つこと500年には発見されていた。これほど進んでいた国がどこでどうして凋落してしまったのか、今度はその秘密を知りたくなってくる。
吉田武「虚数の情緒」
索引も含めると千ページにも達する数学の本。副題は「中学生からの全方位学習法」。「人類文化の全体的把握を目指した独習書」というだけあって、教育論から歴史(歴代天皇生没年まで載っている)、文学、スポーツまで、その書きっぷりは縦横無尽である。数学書なので数学の話題が中心なのはもちろんだが、「人として大事なことは何でも教えたい」というような姿勢だから、著者が論じる範囲は数学教育の枠をはるかに超えてしまう。これを不遜だ、独善的だと嫌う人もいるだろうが、そんな批判をものともしない志を感じる。何ごとも細分化・専門化される一方の現代社会に、まだこんな人が生き残っているのか。
佐竹昭広「文明開化と民間伝承」
明治維新がふつうに生きる人たちにもたらしたものは、新しい時代を迎える浮き立つような希望などではなかった。あらゆるものが変わってしまう不安がさまざまな噂を生み、噂は流言蜚語となって広がった。戸籍の整備は人身売買の準備だと信じられ、異人に売られた者は血を抜かれ膏をとるために火であぶり殺される、とされた。これらの噂が受け入れられ、はるか遠くまで広まってゆく背景には、想像力の共通基盤としての伝承=民話があった、というのが佐竹氏の考察である。さきに取り上げた「逝きし世の面影」と比べると、同じ時代を描いたとは思えないほどの違いに驚く。岩波ライブラリー「酒呑童子異聞」に収録。
渡辺京二「逝きし世の面影」
文化は継承されるが、文明は滅びる。18世紀初頭から19世紀まで続いた日本の文明は、明治の半ばを過ぎるころには、跡形もなく消え去ってしまった。かつて日本を訪れた外国人は、この国の無垢で開放的で礼儀正しい人たちに接して、みな感嘆の声をあげ、「地上の天国の天真爛漫さ」とまで評したという。たしかにどこの家も開けっ放しで中は丸見え、興を感じた外国人が上がり込んでも怖がることもなく歓待してくれるとなれば、それも当然だろう。好奇の目ではなく、自分達が持ち込んだ「近代文明」によって滅んでいく美しい世界を、惜しみ懐かしむようなかれらの眼差しが印象に残る。一読すれば忘れられない名著。
林望「恋の歌、恋の物語」
副題は「日本古典を読む楽しみ」。まさに古典を楽しむためのヒントが満載である。なかでも和歌は本来声に出して朗々と歌った、という指摘には、今さらながら目を開かれる思いがした。たとえば「風吹けば」という一句なら、「かぜーふけばーーーーーーぁあぁ」ってな具合にゆったりと詠んでいく。するとその間に、聞く者の心の中には「風が吹く」というイメージが横溢してくる。そうしておいてまた「峰に分かるる」と来ると、聞く人の心のなかには、京の都の周囲に立ち並ぶ峰峰が想起されたに違いない、なんて言われると、たしかに歌を耳にしながら、次々に頭のなかで映像を思い浮かべていたであろう当時の人たちの有り様が想像できるような気がしてくる。なるほど和歌をささっと黙読するのは、音楽を早回しで聴くようなものだったか。世に古典案内の本は多いが、こういう当たり前のことを教えてくれる本は少ない。
中勘助「ちくま日本文学全集」
こどもの頃の懐かしいあれこれを、こどもの心そのままに綴ったような「銀の匙」。奇跡のようにうつくしく静かなこの作品を、これまで何度読み返したろう。
ところが筑摩書房の編んだ本作品集では「銀の匙」と「妹の死」に続いて「犬」が配されている。「銀の匙」の無垢な世界に染まったあとで、どろどろの業を描いた「犬」を読む気分は、違和感というよりいっそ不快感に近い。人の業の深さを描いてみたい気持ちは分かる。岩波文庫とは違うんだぜという編集者の心意気も分かる。でも、中勘助が好きで、その中でもとくに「犬」が好きという人などいるはずがない。
E・Hゴンブリッチ「美術の歩み」
美術史の本として、これほど読みやすく面白い読み物をほかに知らない。14世紀にジォットが出るまでは、絵描きは職人としか見なされず、どんな名匠も後世に名が残されることはなかったとか、ブルネレスキが遠近法を発見するまでは誰も地平線に消えるまで先細りに続いていく並木を描くことができなかった、などといった意外なエピソードの面白さもさることながら、絵画や建築の変遷を語りつつ、人間の意識そのものの移り変わりをゆったりと描く筆致がすばらしい。
今泉吉晴「空中モグラあらわる」
ネズミ、モグラ、リス、ムササビなど、比較的身近な動物の生態をくわしく紹介した本。すべての動物は資源が豊富な人間の世界に入り込もうとしているが、それに成功した動物はわずかに三種のネズミだけ、いわば家ネズミは動物界の英雄なのだ、なんていう書きぶりがいい。表題は、金網をまるめてパイプ状にして張りめぐらせ、その中でモグラを飼って生態を観察したことにちなむ。この素晴らしい本が売れないとしたら、それはタイトルと表紙のせいだろう。何とかしてやってくれ。