親しい人こそ

風薫る五月という表現が実感できる、ほんとうに気持ちのよい日だった。
午後3時過ぎに近所の公園を通りかかったら、よいお天気に誘われて集まったのだろう、幼稚園児と小学生とその親が、いるわいるわ。ブリューゲルの「子供の遊戯」を思い出すくらい、まああっちもこっちもそれは賑やかだった。子どもはもちろん親同士も、日差しを避けて木陰に集まるからもう肩が触れるくらいの距離でおしゃべりに花を咲かせている。まもなく緊急事態宣言が解除されると聞いて、ひと足早く安心してしまったようだった。

新型コロナウイルスは、悪くすると死んでしまう非常に恐ろしいものである。しかし公園で楽しげに談笑するみなさんから、そんな不安は感じられない。県外ナンバーの車に「来るな」なんて張り紙をしてしまう人がいる一方、このようにまったく平気な人もいるのはどういうことなのか。

おそらくみなさんは、ウイルスが人格的な「悪の使い」か何かと思っているのではないか。このウイルスは、素性も分からない邪悪なよそ者が悪意をもって持ち込んで来るものであって、ずっと親しくしている親切で人のよい誰々さんが運んで来ることなんてありえない、と思ってはいないか。

言うまでもなく、ウイルスを持っているかどうかは相手の人格やわたしとの親密さなどとは何の関係もない。悪気のありなしとも何の関係もない。どんな善良な人でも、どんなに思いやり深い人でも、ウイルスは区別なく配慮なく入り込み、拡散する。

スーザン・ソンタグが「隠喩としての病」の中で、病気が悪徳や穢れの現れとして捉えられ、やがて蔑視や差別に繋がっていくようすを描いていたが、現在の日本ではそれとは逆に、「私と親しいこの人に限ってウイルスなんて持っているはずがない。だってこんなにいい人なんだから」という、わけの分からない油断が蔓延している気がしてならない。親しい=善良=清潔=無害というようにイメージが連鎖してしまっている。よそ者の排斥は、これが反転した形である。

たしかにウイルスには邪悪なイメージがある。だがそれは何の根拠もない単なるイメージに過ぎない。ウイルスの出現や蔓延は一種の自然現象であって、雨や風や地震や雷と同じように、善人にも悪人にも等しくやって来るものだ(そう言えば、ブリューゲルにはペストが見境もなく人々を襲う「死の勝利」という不吉な作品もあった)。

早い話、病気は親しい人からうつるのだ。もう少し距離を取って、みんなでちゃんと生き残ろうぜー。