月別アーカイブ: 2006年5月

取材の申し込み

もしもし、塾長先生でいらっしゃいますか。
わたしども、なんとかジャーナルと申しまして、
銀行等によく置いてあります、アサヒグラフのような感じのですね、
経済誌なのですが、本日はですね、
地域に密着してがんばっておられる学習塾、ということで
ALP様に取材にお伺いしたいと思いまして、
お電話させていただきました。
インタビュアーは、「C学生日記」に出演されている
有名な俳優さん、ご存じかとは思いますが
(ここで一拍タメ)、
何のナニガシさんなんですが、そのC学生日記のナニガシ先生と
教育を語るということでですね、大手さんにはないような、
地域に密着した活動をしていらっしゃる学習塾の中でも、
とくに評判のよいALP様に取材をさせていただけたら、
と思いまして。
ふーん、どうしてウチのことお知りになられたんですか。
それはですね、ニシヤマモトドオリの、ですね、
その地域に密着してがんばっておられるということで、
近所の評判などをですね、やはり大手さんとは違った
教育理念をお持ちということで、そうした学習塾さんを広く
紹介するというのが今回の特集の趣旨でして、
そういうわけで、今週の金曜日土曜日に30分ほど
お時間をいただいて取材をさせていただけないかと思いまして。
おもしろいからしばらく長広舌につき合っていたが、
残念ながらぼくはこの商売を知っている。
それから、西山本通は、ニシヤマモトドオリじゃなくて、
ニシヤマホンドオリね。
20年前はもっと高かった気がするが、
「取材費」は7万円だそうだ。
こういう商売が成り立つということは、
もちろん広告と割り切ってお金を出す人も多いのだろうが、
「自分は取材を受けるに値する」と感じている人が
少なからず存在する、ということなのだろう。
そういう自尊心につけ込むってところがなかなか巧妙である。
世の中にはいろいろ楽しい商売があって、
頼んでもいない雑誌を送りつけ「年間購読料48000円」なんて
請求をしてきたり、
頼んでもいない雑誌を送っても来ないで、請求書だけを送ってきたり、
タウンページそっくりの様式で、
さもそれらしい請求書が送られてきたりもするのだが、
そういう商売は、
「誰かが発注したのかなあ」と疑いながら払っちゃうこと、
すなわち「うっかり」を期待しているだけだから、どこか
とぼけた可愛げがあるが、
取材を装っておじさんの「自尊心」につけこむってのは、
少々それとは違っている。
人としての弱みを狙い撃つのはさすがにずるい。

デジカメの入院

デジカメを2台、修理に出した。
今となっては珍しい200万画素の旧機種である。
いずれも3年くらい前に中古で買った物で、
安いメモリーカードでたくさん撮れるから、
けっこう重宝している。
症状は素人目にみても重症である。
どちらも二千円や三千円で直るとは思えない。
CCDやらをごっそり変えると2万円くらいかかるという
ウワサも聞いた。
一方、同じ機種をネットオークションで探すと
ざっと5千円ってとこらしい。
さて、2万円で直すのと、5千円で買い直すのと、
どちらがもったいないのだろう。
実のところ、直して使うというのが、
今日ではもっともお金がかかるのだ。
なんてことを思っているうちに、電器屋さんから
連絡があった。
2台ともCCDを取り替えました、とのこと。
げげー、やっぱり。
どきどきどきどき。いくらだったんだろう。
相当の出費を覚悟したが、
なーんと意外なことに2台ともタダだという。
ほー。
もしやこれは、モノは捨てずに大事にしなさい、
というお告げなのか。ああ、ありがたい。
雨の日にガンガン使ってずぶ濡れにしただとか、
デジカメを入れたままカバンを投げたとか、
そんな淡い思い出とともに、
この教えは深く胸にしまっておこう、
と思ったことであった。

こりゃひどい。

フジテレビが何日か前に放映した「ダビンチコード」の
スペシャル番組を観た。
ひどい番組だった。
そう言えば小学生が、モナリザって誰だか知ってる?
なんて訊いてきたが、出所はここだったか。
映画や小説は、エンターテイメントの中に荒唐無稽な風説が
織り込まれているだけだから害は少ないが、
このテレビ番組のように「暗号」やら「謎」そのものだけを
取り上げるとなると、話はまったく違ってくる。
どんな馬鹿げた話でも、2時間もかけて繰り返されると、
何だか根拠があるような気がしてくるものだ。
プロパガンダの真骨頂である。
大人ですら真に受けかねないのだから、
子どもだったらひとたまりもないだろう。
子どもは一般に時間の感覚が非常に粗いので、
この番組を観た子の相当の割合は、
レオナルド・ダ・ヴィンチとイエス・キリストを
だいたい同じ時代の人、と感じたはずだ。
言うまでもないことだが、
ダ・ヴィンチはイエスよりも1500年も後の時代の人である。
今のように聖書学が発達しているわけでもない時代に、
1500年前の外国のことを想像して描くというのは
どういうことか。
それはたとえば、今のヨーロッパの人が聖徳太子より
もっと前の日本を想像して描くようなものだから、
いくら素晴らしい芸術であっても、
そうやってできた作品が「事実の記録」なんてことは
ありえない。
山海経に描かれているからといって、
むかしの中国にはこんな妖怪がうようよしていた、
という推論が成り立たないのと同じことだ。
こんな当たり前のことすら忘れさせてしまうんだから、
テレビもなかなかおそろしい。
国民を馬鹿にする(馬鹿・にする)番組ってのは、
こういうのを言うんだよな。

ダヴィンチコードの謎

「ダヴィンチコード」を観てきた。
この作品にはなぜか惹かれるものがあって、
邦訳も原書もピクチャーブックも朗読CDも
持っているくらいだから、
いくら流行りものとは無縁といえど、
観ないわけにはいかない。
映画の方は、
ぼくはストーリーよりも風景に浸ることの方が大事だから、
古い景色をもっとたくさん映してくれればよかったかなあ
とは思ったけれど、とりあえず、
原作の面白さを再認識した、とだけ言っておこう。
さてこの映画、封切り前から大いに話題になったものだが、
連日報道された、世界の各地で抗議行動がわき起こった、
というのがどうも分からないねー。
これまでだって、あの手の話はいくらでもあったのに。
だいたいあの内容に本気で目くじらを立てるのは、
「猿の惑星」を観て「人間を冒涜している」と騒ぎ、
「一寸法師」を読んで、
「そんな小さい人間がいるはずがない!」
と激高するようなもので、
ふつうはそんな大人げのないことはしない。
たしかにわが秋津島大和の国は、
源義経が大陸に渡ってチンギスハンになり、
楊貴妃が山口県あるいは熱田神宮に眠り、
何よりキリストが青森県で大往生をとげた
特別な国ではあるが、
かような背景を持たない夷狄といえども
その程度の道理はわきまえているのではないか。
イエスの聖性を貶め、
大衆に誤った印象を与える作品は許せない、
という気持ちは分からないでもないんだけど、
本当に抗議しなくちゃいけないのは、
いかにも荒唐無稽な本作ではなく、
一見よさげな「パッション」みたいな作品なんじゃ
ないかとも思うし、
そういえば、かの「ハリー・ポッター」も
おぞましい魔法を礼賛する作品として
キリスト教の皆さんからは槍玉に上がっていたはずだが、
こちらはちっとも報道されない。
そんなことを考え合わせると、
どうも一連の「抗議行動」とその報道は、
誰かが仕掛けた巧妙な宣伝だったように思えるんだけど。
気のせいでしょうか。

センター試験もなかなか

小学校のときから、
テストというのは名前を書かなければ0点と決まっていた。
非情なものである。
ましてコンピュータでちゃちゃっと採点してしまう
大学入試となれば、
機械的に0点にされるのは当然である。
第一入試というものは、公開されたルールにのっとり、
ともかくも一定数を落第させることを目的としているのだから、
うっかりミスに温情をかける余地などあるはずもない。
ってなことをぼくは今日まで疑うことなく信じていたのだが、
いやあ、驚いたなあ。
なんとあのセンター試験が、
受験番号をマークし忘れた受験者(今年は7000人!)を
わざわざ割り出して、ちゃんと採点してやっていた、
というのである。
本人にも知らせず(つまり誰にも感謝もされず)、20年以上も
そういう面倒なことをやり続けていたなんて、
こいつはなかなかいい話ではないか。
もっとも、受験の失敗を
「あれはマークミスに違いない」と信じることで
やっと乗り越えたSくんやNくんの心情を思うと、
この措置が「救済」になっているかは微妙なところだけど。

大人のチョコレート

仕事帰りにコンビニに寄って、
「カカオ86%」なんていうチョコレートを買ってみた。
驚いた。
というより腹が立った。
何しろ苦い。
上質な苦み、ほのかな甘さって言うけどさ、
これはほのか過ぎるでしょ。
ホメオパシーという療法では、一万倍だかに希釈した薬を
投与するというが、そんな話を思い出した。
「健康とおいしさを考えた大人のチョコレート」とのことですが、
これからは、ひとつおいしさだけでお願いします。

こらこらそこはいけません。

病院の前のバス停のベンチに、
枯れたようなじいちゃんが座っていた。
背筋を伸ばして、それはそれはうまそうにタバコを吸う。
ちょっと上向き加減にふーっと煙を吐き出すのが、
じつに伸びやかで気持ちがいい。
バス停は禁煙だそうだが、
じいちゃんのあの美しいほどの吸いぶりをみてしまうと、
ちょっと考えさせられる。
迷惑だからあそこも禁煙ここも禁煙と騒ぎ立てるのが、
はたしてそれほど正しいことなのだろうか。

がりっとな。

お昼を食べていたら、前歯が欠けた。
よーく見ないと分からない程度なのだけれど、
気になってしかたがない。
thの発音をしたら舌が切れそうである。
何だか落ち着かないので
手元にあった平ヤスリをきれいに洗って、
鏡を見ながらこりこりこりこり削ってみた。
おっけー。いい感じ。
やればできるじゃないか。

だから馬の話じゃなくてさ。

近ごろの子どもは、人の話も聞けないし、
筋道を立てて話すこともできないし、
文章を読んでもトンチンカンな取り方をする、
なんて嘆きをよく耳にする。
たしかにそうだと思う。
4コマまんがなどを読ませても、
まったく話の流れを読み取れない子どもはたくさんいるし、
授業の要点を自分からまとめられる子などはきわめて稀である。
しかしその程度のことなら、大騒ぎするほどでもない。
なぜなら彼らはまだ子どもであり、
ちゃんと教えてやればそこそこの理解はできるようになるからだ。
ふだんの暮らしの中でもっと始末に悪いのは、
「人の話も聞けないし、筋道を立てて話すこともできないし、
文章を読んでもトンチンカンな取り方をする」大人であり、
話の流れをつかむことができないために、
とんでもないコメントを口走り、
とうとう議論が成り立たない人たちである。
こういう人は思いのほか多い。
もしかすると、こういう人の方が多いかもしれない。
たとえば、子どもに意欲を持たせるにはどうするか、
という話をするのに
「馬を水場に連れて行くことはできても、
水を飲ませることはできない」
というおなじみの比喩を持ち出したとしよう。
するとそういう人たちは、馬の話を受けて、
「そうそう馬って自分の思ったことしかしないのよね」
「でも目がかわいいよね」
「わたしはシッポが好き」
なんておしゃべりを始め、怪しむところがない。
こういう現実をそのままに、
子どもに英語を教え、もって国民のコミュニケーション能力の
向上を図ろう、なんて言うんだから、
文科省もなかなか冗談がキツい。

雨の朝

朝8時半、パチンコ屋の前には早くも十人くらいの行列ができている。まだこの時間には起きていない人も多いだろうに、雨の中で開店を待つのはなかなか大変だ。ズボンを腰まで下げ、ビニール傘をくるくる回しながら斜めに立つ若者も、それはそれなりに勤勉なのだな、と思った。