抗議する権利

日本の学校では、声を上げることが事実上禁じられている。
このあたりの中学校では、「髪が肩にかかったら結ばなければなりません、靴下は白、靴も白」などという理不尽な校則が、何十年も見直されることなく当然従うべきものとして与えられている。それに対して声を上げることは許されない。

日本の道路交通法によれば、オートバイの免許は満16歳でとってよいことになっている。しかし事実は都市部のほとんどの高校では免許取得は禁止され、バレたら停学ヘタすりゃ退学である。多くの人が、不思議にも思っていないだろうが、このように国が認めていることを(たかが)学校が(まるで権威あるもののように)禁止しているのは、妙な事態ではないか。

しかしここで言いたいのは、校則が理不尽であるということではなく、理不尽な校則にもただ唯々諾々と従うことが正しいと思い込まされている子どもたちが気の毒だということであり、そうやって権威に従順に従うことだけを教え続けていて、果たして日本は民主国家になれるのか、ということである。

非常に嫌な、面倒な、うんざりする話ではあるけれど、子どもたちには、秩序を守ることとともに、理不尽な抑圧や権利の蹂躙に対しては誰もが抵抗する権利・抗議する権利があるのだ、ということをも教えなくてはならない。われわれの社会は、すでにそういう段階に差し掛かっている。権利が侵害されようとするとき、そうする以外に権利を守る方法はない。

抵抗する権利を教えるというのは大変なことだ。子どもたちに、ほかでもないわれわれに対して叛旗を翻すことを認め、われわれはそれと真摯に対峙しなくてはならないからだ。子どもたちの抗議に対して、叱りつけて抑え込むようなことをしてはいけない。与党の皆さんの使う特殊な意味ではなくほんとうの「ていねいな説明」をしなくてはならない。無意味な言葉を繰り返して相手の嫌気を誘うのではなく、難しい言葉で相手を丸め込むのでもなく、巧みに論点をずらして問いかけとは違った答を返して煙に巻くのでもなく、正しく向かい合って聞くべきことを聞き、伝えるべきことを伝えるのである。

なんなら毎年生徒たちと議論をして、一年限りの校則改訂を認めてやる、なんてことをカリキュラムに組み込んでもいいかもしれない。きっといろいろなことを考えるきっかけになる。どうでもいいテーマについて口先だけのディベートごっこをするよりずっといい。

秩序を維持するために、ある程度人権が制限されることはやむを得ないのか、もしそうならそのある程度とはどういうレベルをいうのか。あるいはある生徒たちに楽しくのびのび過ごす権利を認めた結果、ほかの生徒の学習環境が悪化するようなことがあったらどうするのか、そもそも学生にとってはどういう権利が優先されるべきなのか、なんてことを考えさせるよい機会になるだろう。

模擬授業などではない。ほんとうに中学生や高校生に、「君たちには意見を表明する権利がある。抗議し抵抗する権利がある」と教えてやるのだ。そして実際に彼らの抗議を受け止め、ときに跳ね除け、ときに譲歩し、ともによいルールを作り上げて行く。そしてほんとうに校則を変えてしまう。学校は管理施設ではなく営利団体でもなく、教育機関=トレーニングセンターなのだから、失敗してもいい、そういう経験をたっぷりさせてやればいい。そうすれば、何より権利はみずから勝ち取るものであり、社会は働きかければ変えうるものであるという民主主義の大事な部分を実感できるだろう。

そんなことをしたら学校が崩壊する、という心配は当然ある。しかし、管理の行き届いた学校というものは、子どもたちに盲従を強いてまで守らなければいけないものなのか。それがいちばん大切なものなのか、もしかしたら学校の秩序を保つことより、もっと大切なことがあるのではないか、ということから考え直してみてはどうだろう。

これは暴論ではない。たとえば中国のような管理が行き届いていて安全だけれど不自由な国と、イタリアのように管理はぼろぼろだけれど自由な楽しい国とのどちらが良いかということは、簡単には決められない。そういうことである。

それに、たとえ子どもたちの運動によって学校の秩序や風紀が大きく乱されたとしても、その苦い経験が、やがて主権者としての成熟した考えや行動に結びつくなら、これはひとつの大きな教育の成果といえないだろうか。

自分たちが闘い、次の世代に遺産を残すということを一度体験した子どもたちは、きっと意見の言える国民として育って行くんじゃないか。

こんな話は無責任な放言かもしれない。しかしこういう実践以外に、民主主義を育て根づかせる方法はあるだろうか。