月別アーカイブ: 2006年10月

悪いのは高校なのかね?

昨日取り上げた「履修させないでごまかしちゃった事件」
について書かれたものを読んでみると、
そんなことする高校はけしからん、
という論調が圧倒的に多い。
新聞は、社会に役立つ人材を育てるための指針を
無視した責任は大きい、なんて書いているし、
学生が世界史的事件についてこれほど無知な理由が
分かった、という大学の先生もいる。
履修のごまかしが、とくに世界史に目立つからだ。
でも、今よりましであるはずのちょいと昔には、
必修科目は意外なほど少なかった、
という事実を指摘しないのはどういうわけだろう。
たとえば1982年から実施された指導要領では、
社会科の必修科目は「現代社会」1科目しかなかったし、
それ以外の年の指導要領も、
いくつかの科目から選べる選択必修ってな形で
定めてきたものだ。
今のように世界史が必修科目になったのは
平成4年以降、ついこの間のことである。
そういうことを考えあわせると、
そもそも世界史を全員に必修にする必要があるのか、
文科省がそこまで統制しなくちゃいけないのか、
という議論があってもよいと思う。
ぼくとしては、以前は教育を現場に任せようという
大らかな方針が取られていたのに、
近年になって一元的に管理しようという方向に
大きく転換してしまっているこのことが、
いちばんの問題じゃないかと思っている。
だいたい、いくらズルをする学校が多いといっても、
何たって必修なんだから、
昔と比べれば世界史を教える高校はずっと増えているわけだ。
それでも若者の歴史感覚が
それ以降著しく向上したとは聞かないし、
むしろ「世界史的事件についてあまりにも無知」と
まで言われてしまう体たらくなわけだろう。
つまり、必修化の成果はまったく表れていないっ
てことなんだよね。
このように、
何を教えようが試験が終わればきれいに忘れる、と
いうのが標準的な高校生の姿であることは、
今も昔も変わりはないわけで、
にもかかわらずとにかく履修させようっていうのは、
何かちょいとズレているような気がしてならない。
けっきょく、この騒動で見直すべきは、
高等学校のあり方なんかじゃなくて、
むしろこれまですべての教育改革に失敗してきていながら、
なおも現場をコントロールし続けようとする文科省のあり方、
なんじゃないかと思うし、
そもそも世界史を必修にしようと考えたのは、
例によって世界史を教えれば国際理解が進むっていう
素朴な発想なんだろうから、
まずはこっちの方から議論し直してほしいものだよね。

必修なんだからね!

全国の相当数の高校で
文科省が定めた必修科目を教えずにいたことが
問題になっている。
受験に必要のない科目を教えず、
その時間を他の科目の授業に振り替えていたのである。
いかにもありそうな、というか、
やってて当たり前じゃんというのが率直な感想だが、
もちろんここにそんなことを書いたりはしない。
塾の主宰としての良識である。
さて、それはともかく、
いったんことがバレてしまった以上、
当該高校の生徒は必修科目を履修しないかぎり
卒業させるわけにはいかない、という。
そのために高校はこれから70時間もの補習をして、
きちんと卒業要件を満たすってんだから、
なんとも気の毒な話である。
今さら言うまでもなく、
受験を間近に控えた高校3年生にとって、
この70時間はとてつもない障害となる。
受験には何の役にも立たない科目なのだから、
補習をしてもらっても感謝するヤツなどひとりもいない。
おそらくサボる者が続出するし、
ちゃんと出席する生徒だって、
いわゆる内職に精を出すだけだろう。
そんな授業を担当する先生も、これまた面白いはずがない。
すなわち、何とも奇怪なことに、
生徒は喜ばず、先生も喜ばず、
生徒に得はなく、先生にも益はなく、
つまり誰もが嫌で、誰もが無駄だと知っている授業が、
これから延々と行われることになるのだ。
建前はともかく実際には、
そこで学んだ成果が残る可能性はゼロに近いんだから、
誰が見たって時間と労力の浪費というほかない。
じゃ、なんでそんなことをするのかというと、
ひと言でいうと文科省の体面を守るため、だろう。
だって受験生を危地に追い込むことを知りつつ、
それでもルールの遵守を求めるっていうんだから。
ここでは明らかに、
必要な学力教養を身につけさせなかったことでなく、
お上の指示を軽んじた点が問題視されているのだ。
生徒の受験の成否を危険にさらしても、
文科省の指示は履行せねばならないとは、
これはハンパな圧力じゃない。
これほどまでに国家が力を振るうのを見ると、
やっぱり教育は甘い行政サービスなどではないと
再認識させられちゃうわけで。
この際どこか一校くらい、
教育の自治を訴えて、文科省に楯突く高校はないもんかねえ。

事情は分かんないんだけどさ

近所にマンションが建つことになった。
いつからか反対運動がはじまり、
気がつくとのぼりが建築現場のぐるりを囲んでいる。
ところがこのマンション、はた目には
あんまり迷惑そうな物件に見えないのだ。
三階建の低層だし、
日当たりが問題になる北側には道を隔てて公園があるだけだ。
もちろん正義の確信を持たずに反対運動を
することはないから、
おそらくそこには、日照以外の事情があるには違いない。
しかしどんな事情があるにせよ、
それを知らない部外者には
ただの住民エゴに見えてしまうものである。
外野のぼくには
発言する資格などあるはずもないけど、
この件を離れて一般論で言えば、
そこはみんなの空き地じゃなくて
どっかの会社が数億円で買った土地なんだから、
私たちのために建物を建てないでって言うんだったら、
それなりの負担をするのが筋だという気がする。
何にも犠牲を払わずに人の数億円を捨てさせる、
なんて権利は、さすがに誰にもないだろう。
景観を自分の好みに合わせたいなら、
見渡す限りの土地を買わなくちゃいけない。
ここまで言うのは極論かも知れないけれど、
正常な権利感覚ってのは、
もしろそういうもんじゃないんだろうか。

継続は力だそうです

せっかく何かを始めようと思い立ったのに、
これからかかる手間と時間が先に浮かんでしまって、
結局何もやらずに済ませてしまった、
なんて経験はありませんか。
わたしなどはいつもそれで、
前非を悔悟して涙にくれることや幾たびとも知れません。
あのとき思い立ったことをこつこつやっていれば、
今ごろドイツ語なんぞをぺらぺらしゃべり、
超絶技巧練習曲あたりをぱらぱら弾けて、
心臓移植手術くらいほいほいこなし、
体脂肪率10パーセントのむきむき体型になっていたかも
しれないとか、
毎日単語を十個ずつ覚えていれば、
英和中辞典の一冊くらい覚え終わっていただろうとか、
最初の給料から毎日五百円ずつ貯めていれば、
今ごろわがヘソクリは数百万円に達していただろうとか、
それこそ枚挙にいとまがありません。
まさに継続は力なのであります。
継続は力ということは、何かをするときだけでなく、
何もしないときにも妥当する真理です。
つまり「何もしないこと」を継続していると、
何もしないことが力を発揮して、
何もしないことが習い性となってしまうのです。
恐ろしいですね。
アリストテレスによれば
「自然は真空を嫌う」そうですが、
たしかに何もしないことによってできた空隙は、
ぽっかり空いているわけではなくて、
大したこともないことがその空隙を
何となく埋めてしまうものなので、
無為に過ごしたという自覚もなく、
気がつけば十年も二十年も過ぎてしまった、
なんてことになりがちなのです。
まったく恐ろしいものですね。
今日は疲れているのでこのまま寝ますが、
明日か来週かそのうちに、
もし時間があったら、
今度こそ心を入れ替えてがんばろうと思います。
ほんとです。

一泊二日より安い

モーツァルト十時間百曲入り三千円、というすごいCDを見つけた。
買ってからアマゾンなら2400円だとか、
HMVでは40枚組4千円台のモーツァルトがあるなんて事実を知って
やや喜びも減じたが、ここまで安ければまず文句はない。
で、近ごろはずーとそいつを聴いている。
この手の音楽を聴いていたのは中学生のころだから、ざっと30年ぶりか。
当時はFMファンだのFMレコパルだの週刊FMだのといった雑誌があり、
番組表をつぶさにチェックして、片っ端から録音していたもんである。
わざわざレコードコンサートなるものにも足を運んだり、
子ども向けの安い演奏会があるとひとりで出かけたりもした。
思えば、ずいぶんな背伸びだが、
よい趣味や高い教養なるものに憧れる少年時代というのも、
悪いもんじゃないだろう。
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」とは
小林秀雄の言である。
音楽に限らず芸術というものは、鑑賞する人が内にもつ美と共鳴して
はじめて本当の姿をあらわすものらしい。
いつか彼のように聴けたら、と願わずにはいられないが、
三千円でそれは、さすがに図々しいよなあ。

歯が抜ける夢

よく歯の抜ける夢を見る。
前歯がぼろぼろぼろ、とまとめて抜けるのだ。
自然に抜け落ちるわけではない。
何かを食べて折れてしまうわけでもない。
そのままにしておけば、無事かもしれないものを、
ぐにぐに自分で抜いてしまうのである。
全然痛くないし、
むしろごそっと取れる感じが気持ちよい。
歯茎を舌でさわった感じとか、血の味とか、
そんなものまでリアルに覚えている。
もっともこれは、実際に歯が抜けたときの記憶を
転用しているだけなんだろうけど。
指がぼろぼろ落ちてしまう夢も見る。
でも夢分析なんかするつもりはない。
自分の心のありさまを、
どうして人に決めてもらう必要があるだろう。

ありがとうと言ってみな

名古屋弁のイントネーションは独特である。
これは名古屋の言葉に限ったことではないが、
土地の言葉のイントネーションというのは、
まずヨソの人には真似ができない。
テレビドラマで使われる方言もどきに、
ちがうちがうと叫んだ経験のある人は多いだろう。
「ありがとう」のイントネーションは、
標準語では「熊五郎」と同じ、
関西ではしばしば「この野郎」と同じだが、
名古屋のそれは韓国料理の「サムゲタン」に近い。
今の子どもはどうだか知らないが、ぼくは小学生の頃、
自分の「ありがとう」が訛っているなんて思ってもみなかった。
小学校の6年生まで、テレビなどで聞く「ありがとう」は
たとえば「きみ、やめたまえ」と同じく
現実には使われない放送用の擬似言語だと信じ込んでいたし、
担任のヤマダ先生に
「ありがとうは、ありとうではなくて、あがとうと言うのよ」
と教えられたのだけど、
何度か練習しても、りがとうみたいな言い方しかできず、
ついには「そんなのできるわけがない」と
言い返してしまったくらいである。
今では、とくにここ名東区では転勤族が多いせいもあって、
名古屋弁を使う人が本当に少なくなった。
ぼく自身ずっと昔に方言を捨ててしまったひとりだけれど、
ちょっとだけ、子どものころの
「ありがとう」を言えなかった昔を懐かしく思うときもある。
寺山修二の
「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」
という歌になると、
大学生の頃をリアルに思い出してさすがにつらいんだけどさ。

こわれるこわれる

誰もが気づいていることかもしれないが、
クルマだの電化製品だのといった耐久消費財は、
きまって同時に壊れるものである。
ウチの場合は、食器棚と流し台の開き戸が取れ、
食卓の椅子はぬきが外れてガタガタする。
洗濯機は唸りを上げ、掃除機は異臭を放ち、
インターホンはぷつぷつ途切れ、
パソコンはいきなり電源が落ちる。
教室の蛍光灯は管を替えてもちらちらするし、
クルマに乗ったら、
サイドブレーキのワイヤーがぷちんと切れた。
こう次々に壊れるのを見ると、もしかしてこいつらは
買い換え需要を見越してわざわざ壊れるように
設計されているのではないかとか、
あるいはつくも神のように物にいのちが宿っていて、
細胞におけるアポトーシスさながらに自壊作用を
起こしているとか、
一種のシンクロニシティによる連鎖反応が起きているとか、
そんなさまざまな憶測が浮かんでは消える。
もちろん、怪奇現象でもあるまいし、
いろいろなものが同時にあるいは連続して壊れる、
なんてことが実際に起こっているとは考えにくい。
そう感じるのは、多分に気のせいで、
ただこれまで意識もせずにやり過ごしてきたことを、
何かのきっかけでにわかに強く意識するようになった、
というだけのことなのだろう。
それでもね、
気のせいだろうが何だろうが、
修理するのにしっかりお金がかかるという方は、
間違いのない現実なんだよなー。
浜の真砂は尽きるとも世に物いりの種は尽きまじ、
ってか。めそめそ。