それだけじゃなく

新型コロナウイルスは、どんな人間にも分け隔てなく襲いかかる。しかし皮肉を込めていえば「上級国民」ほど優先的に検査を受けられ手厚い治療を受けることができ、その他の民草は繰り返し懇願しても検査すら受けられず、場合によってはあたら命を落としてしまうというのが、わが国の悲しい現実である。

こうした差別は何も医療に限ったことではない。「上級国民」は、その上級の程度にもよるだろうが、たとえば人のお金で毎晩のように豪華な会食を楽しむことができ、あるいは相当のことをやらかしても検察の捜査や起訴を逃れることができる(らしい)。彼らの力にあやかろうとするそれなりに上級の人たちは、彼らに群がりひれ伏しすがりつく。そしてまたその下の階層の人たちは自分よりちょっと上の人たちに群がりすがりつき……という構造が連鎖して広がっている(らしい)。

現代の階級というのは、かつてのように貴族や武士などというはっきりした形をとらないから、どこからが上級でどこまでが中級かなどという詮索には意味がない。しかし階層の切れ目がはっきりしないとはいっても、この社会がところどころに飛び越えられない大きな断層をもつ社会であることは明らかだろう。日本社会は現実をみれば、とうてい平等とはいえない社会なのだ。

こういう社会だから、子どもに努力をすすめ、少しでもよいポジションを目指すように教えるのはもちろん間違ってはいない。這いのぼるチャンスが与えられているのだから、それを活かして精進するのはもちろん正しいことである。スポーツでいえば、ひとつでもたくさん勝って大きい大会に進もうとするのと同じだから、正しいだけでなく美しいと言ってもいいくらいだ。

しかし、そんなふうに考えるだけ、でいいだろうか。子どもを教えるときに、「努力をしましょう、そうしたら自分の望む仕事に就けますよ、充実した楽しい人生が送れますよ」と励ますだけでいいのだろうか。

そうではないだろう。われわれは、社会の波に翻弄されて生きるものではあるけれど、同時にまた、社会を作り上げ動かす力をも与えられている。だったら不公平な社会の中で少しでも優位を確保しようとするだけでなく、不公平さそのものを正そうとする気持ちもまた、われわれは、そしてわれわれの子どもたちは、持っていなければならないのではないか。

勝つことはいいことだ。しかし、公正で公平なこともいいことだ。スーパープレイは素晴らしい。しかしフェアプレイも素晴らしい。こういうあたりまえの良識を育てることも、教育の大事な役割である。残念ながら今の教育は、自分のために力をつけるということに傾きすぎていて、社会正義に目を向けることがあまりに少ない。

社会に生きる者の責任というのは、人に迷惑をかけないで生きるということに尽きるのではない。一所懸命働いてよい製品やサービスを届けることだけでもない。きちんと税金を払うことだけでもない。

そういう消極的な義務を果たすだけじゃなく、誰も踏みつけにされず、搾取されず、晴れ晴れとした気持ちで過ごせるような社会を実現するために、正義と自由と公正によって運営される社会に近づくために、自分の力をちょっと使う。そんなささやかな公共心を持つこともまた、社会に生きるわれわれの責任なんじゃないかと思う。

抗議する権利

日本の学校では、声を上げることが事実上禁じられている。
このあたりの中学校では、「髪が肩にかかったら結ばなければなりません、靴下は白、靴も白」などという理不尽な校則が、何十年も見直されることなく当然従うべきものとして与えられている。それに対して声を上げることは許されない。

日本の道路交通法によれば、オートバイの免許は満16歳でとってよいことになっている。しかし事実は都市部のほとんどの高校では免許取得は禁止され、バレたら停学ヘタすりゃ退学である。多くの人が、不思議にも思っていないだろうが、このように国が認めていることを(たかが)学校が(まるで権威あるもののように)禁止しているのは、妙な事態ではないか。

しかしここで言いたいのは、校則が理不尽であるということではなく、理不尽な校則にもただ唯々諾々と従うことが正しいと思い込まされている子どもたちが気の毒だということであり、そうやって権威に従順に従うことだけを教え続けていて、果たして日本は民主国家になれるのか、ということである。

非常に嫌な、面倒な、うんざりする話ではあるけれど、子どもたちには、秩序を守ることとともに、理不尽な抑圧や権利の蹂躙に対しては誰もが抵抗する権利・抗議する権利があるのだ、ということをも教えなくてはならない。われわれの社会は、すでにそういう段階に差し掛かっている。権利が侵害されようとするとき、そうする以外に権利を守る方法はない。

抵抗する権利を教えるというのは大変なことだ。子どもたちに、ほかでもないわれわれに対して叛旗を翻すことを認め、われわれはそれと真摯に対峙しなくてはならないからだ。子どもたちの抗議に対して、叱りつけて抑え込むようなことをしてはいけない。与党の皆さんの使う特殊な意味ではなくほんとうの「ていねいな説明」をしなくてはならない。無意味な言葉を繰り返して相手の嫌気を誘うのではなく、難しい言葉で相手を丸め込むのでもなく、巧みに論点をずらして問いかけとは違った答を返して煙に巻くのでもなく、正しく向かい合って聞くべきことを聞き、伝えるべきことを伝えるのである。

なんなら毎年生徒たちと議論をして、一年限りの校則改訂を認めてやる、なんてことをカリキュラムに組み込んでもいいかもしれない。きっといろいろなことを考えるきっかけになる。どうでもいいテーマについて口先だけのディベートごっこをするよりずっといい。

秩序を維持するために、ある程度人権が制限されることはやむを得ないのか、もしそうならそのある程度とはどういうレベルをいうのか。あるいはある生徒たちに楽しくのびのび過ごす権利を認めた結果、ほかの生徒の学習環境が悪化するようなことがあったらどうするのか、そもそも学生にとってはどういう権利が優先されるべきなのか、なんてことを考えさせるよい機会になるだろう。

模擬授業などではない。ほんとうに中学生や高校生に、「君たちには意見を表明する権利がある。抗議し抵抗する権利がある」と教えてやるのだ。そして実際に彼らの抗議を受け止め、ときに跳ね除け、ときに譲歩し、ともによいルールを作り上げて行く。そしてほんとうに校則を変えてしまう。学校は管理施設ではなく営利団体でもなく、教育機関=トレーニングセンターなのだから、失敗してもいい、そういう経験をたっぷりさせてやればいい。そうすれば、何より権利はみずから勝ち取るものであり、社会は働きかければ変えうるものであるという民主主義の大事な部分を実感できるだろう。

そんなことをしたら学校が崩壊する、という心配は当然ある。しかし、管理の行き届いた学校というものは、子どもたちに盲従を強いてまで守らなければいけないものなのか。それがいちばん大切なものなのか、もしかしたら学校の秩序を保つことより、もっと大切なことがあるのではないか、ということから考え直してみてはどうだろう。

これは暴論ではない。たとえば中国のような管理が行き届いていて安全だけれど不自由な国と、イタリアのように管理はぼろぼろだけれど自由な楽しい国とのどちらが良いかということは、簡単には決められない。そういうことである。

それに、たとえ子どもたちの運動によって学校の秩序や風紀が大きく乱されたとしても、その苦い経験が、やがて主権者としての成熟した考えや行動に結びつくなら、これはひとつの大きな教育の成果といえないだろうか。

自分たちが闘い、次の世代に遺産を残すということを一度体験した子どもたちは、きっと意見の言える国民として育って行くんじゃないか。

こんな話は無責任な放言かもしれない。しかしこういう実践以外に、民主主義を育て根づかせる方法はあるだろうか。

マスクきたきた

ついにわが家にも、あのあのあのマスクがついについに届きました。

マスクを縫うのは大変な仕事です。マスク運ぶのも、配るのも大変です。縫ってくれた人、届けてくれた人、ありがとう。政府のすることは完全ではないかも知れないけれど、働いてくれた人たちの努力を、笑ったり馬鹿にしたりしていいはずがありません。それは政治的な主張以前に、人として間違っています。必死で働いてくれた人たちに感謝するのは当然です。ありがとう。

と思う気持ちは美しいと思う。素直で無垢で善良だ。
しかし、これは先の戦争で国や軍部の犠牲になった人たちに対して、兵隊さんありがとう、と感謝を捧げるのと同じ構造ではないのか。感謝の気持ちは尊いが、この感謝は同時に国の無能や非道を覆い隠し、それに対する批判を封じる役目をも果たしてしまう。

なぜならわれわれが感謝できるのは、価値あるものに捧げられた犠牲に対してだけだからだ。そうでないときに抱くのは、感謝であるよりむしろ悲嘆であり哀憐である。国に見捨てられ飢えて死んだ人たちに向かって「兵隊さんありがとう」とはふつう言えない。

だから「ありがとう」と言うためには、その戦争は、何としても国を守る尊い戦いだったとするしかない。兵士に対する感謝と兵士が仕えたもの(国)の美化とは常に一体なのである。

くだんのマスクも同型である。マスクを作り届けてくれた人たちに、かつての兵隊さんに対するような感謝を抱くとき、われわれは国を美化しないでいることはできない。まったく無意味で不要な仕事をしてくれてありがとう、とは言えないのだ。ありがとうと言うためには、みんなのために良いことをしてくれた、とみなす他はない。

しかしこれはおかしいだろう。働いてくれた人に感謝したい。だからアベノマスクは素晴らしい政策だと思います、というのは完全に論理が転倒している。それだけでなく、人のよい良心的な人ほど批判が封じ込められてしまうという構造を持つ点で、見逃してはならない危険を孕んでいる。

感謝の気持ちは間違いなく尊い。しかし本来なら感謝を受けるにふさわしい仕事ができる人たちに、かくも馬鹿げた無意味な仕事をさせてしまったのだ。どんな利権が絡んでいたのか知らないが、そういう愚行の旗を振った連中にはもっともっと怒っていい。

今度こそ、みんなで選挙に行きましょう。

親しい人こそ

風薫る五月という表現が実感できる、ほんとうに気持ちのよい日だった。
午後3時過ぎに近所の公園を通りかかったら、よいお天気に誘われて集まったのだろう、幼稚園児と小学生とその親が、いるわいるわ。ブリューゲルの「子供の遊戯」を思い出すくらい、まああっちもこっちもそれは賑やかだった。子どもはもちろん親同士も、日差しを避けて木陰に集まるからもう肩が触れるくらいの距離でおしゃべりに花を咲かせている。まもなく緊急事態宣言が解除されると聞いて、ひと足早く安心してしまったようだった。

新型コロナウイルスは、悪くすると死んでしまう非常に恐ろしいものである。しかし公園で楽しげに談笑するみなさんから、そんな不安は感じられない。県外ナンバーの車に「来るな」なんて張り紙をしてしまう人がいる一方、このようにまったく平気な人もいるのはどういうことなのか。

おそらくみなさんは、ウイルスが人格的な「悪の使い」か何かと思っているのではないか。このウイルスは、素性も分からない邪悪なよそ者が悪意をもって持ち込んで来るものであって、ずっと親しくしている親切で人のよい誰々さんが運んで来ることなんてありえない、と思ってはいないか。

言うまでもなく、ウイルスを持っているかどうかは相手の人格やわたしとの親密さなどとは何の関係もない。悪気のありなしとも何の関係もない。どんな善良な人でも、どんなに思いやり深い人でも、ウイルスは区別なく配慮なく入り込み、拡散する。

スーザン・ソンタグが「隠喩としての病」の中で、病気が悪徳や穢れの現れとして捉えられ、やがて蔑視や差別に繋がっていくようすを描いていたが、現在の日本ではそれとは逆に、「私と親しいこの人に限ってウイルスなんて持っているはずがない。だってこんなにいい人なんだから」という、わけの分からない油断が蔓延している気がしてならない。親しい=善良=清潔=無害というようにイメージが連鎖してしまっている。よそ者の排斥は、これが反転した形である。

たしかにウイルスには邪悪なイメージがある。だがそれは何の根拠もない単なるイメージに過ぎない。ウイルスの出現や蔓延は一種の自然現象であって、雨や風や地震や雷と同じように、善人にも悪人にも等しくやって来るものだ(そう言えば、ブリューゲルにはペストが見境もなく人々を襲う「死の勝利」という不吉な作品もあった)。

早い話、病気は親しい人からうつるのだ。もう少し距離を取って、みんなでちゃんと生き残ろうぜー。

やっぱりイケメンの勝ち

われわれが誰かの意見に対し共感したり反発したりするときに、純粋に意見の内容だけを根拠に賛否を判断していることはほとんどない。
何となく好感を抱いている人の意見だから賛成、嫌いな奴の意見だからとにかく反対ということが実は多い。実際Twitterなどを眺めていて、記事を読んだときにはこれといった感想を持たなかったのに、投稿者の名前を見たとたん、あ、これはけしからんわ、なんて判断したりしてはいないだろうか。

このことは文章の巧拙にも言えることだ。文章がうまいと意見も正しい、下手だと内容までも下らない、なんて思えてしまう。よほど主体的に読んでいないと必ずと言っていいほど陥る落とし穴だ。本来は、文章の心地よさや面白さと、内容の重さ深さとは無関係のはずだが、なかなかそうは思えない。

われわれはふだんの生活の中で膨大な文章を目にしているが、それらのほとんどは読んでいるというよりも、ただ目に見えているだけであり、ひとつひとつのことばやその連なりを、いちいち受け取り反芻し理解し記憶しているわけではない。

それどころか文章はただ背景のように流れていき、ときどき印象的な単語やフレーズに出会うとそこだけがかろうじて意識に残る、という程度がせいぜいだろう。すべての文字列に細心の注意を払いいちいち真剣に吟味するような読み方は日常的なそれではない。緊張も集中もなくぼんやり読んでいるのが一般的で、そしてこういう読み方をしているときには(つまりほとんど常に)、内容の如何にかかわらず目に美しく耳に心地いい文章を好もしく思い、筆者の主張をその内容を問わずに受け入れてしまうものである。

ちょうどテレビを見ているとき、こいつの言うことは(顔も声も話し方も嫌いだから)信用できない、この人の言うことは(誠実そうだし口調も好感が持てるから)正しい、とつい判断してしまうのと同じである。

これが意味するのは、大衆社会において、情報を正しく伝えそれに基づいて各人が正しい判断をなし、もって最適な合意が形成される、ということは絶望的に難しいということだ。

社会の成員の大多数が、テレビや新聞やネットニュースやSNSで発信される膨大な情報のひとつひとつについて、顔や声や口調や文体に惑わされず、集中し内容を吟味し論理の展開を丁寧に追って、メッセージの内容そのものを公平に評価するようになる、なんてことは決してありえない。

理屈というものは残念ながら、伝えるのには時間がかかる。受け取る側にも根気がいるし、ある程度の基礎知識や理解力が必要な場合も多い。

それに対して見た目とか語り口といったイメージの方は、聞き手の努力を要せず一瞬で伝わり、強烈な印象を残す。シェイクスピアの劇中に、カエサルの死を悼むアントニウスの演説によって群衆が興奮し暴動を起こす場面があるが、民衆をそこまで駆り立てたものは、彼の雄弁ではなく整然とした理路でもなく、壇上で広げられたカエサルのトーガであった。鮮血に染まったただ1枚のトーガである。

われわれの判断力は、昔も今もそんな程度だ。自分の賢さを過信せず、うまい言葉や見た目のきれいさに、だまされないようにしましょうね。

本当だってば

直接目で見ること以外は、人に言われたことを信じるしかない。地球が丸いとか、火星には生き物がいないとか、聖徳太子が何をしたとか、白血球がどうしたとか、低気圧がどうなったとか、実際には自分じゃ確かめられないことばかりだ。統計数字もそんな面があって、その数字が正しいものかどうか、直接調査と集計をした人以外は知りようがない。

だからとりあえずそのまま数字を信頼するしかないんだが、中には数字そのものは正しいとしても、解釈を歪めたり都合のよい数字だけを持ち出したりする人がいるからたちが悪い。あるいは自分で解釈するときでも往々にして自分の望んでいる結論に引きつけて数字を読み取ってしまう。

ちょっと長いが次のリストを見てほしい。2020年5月5日現在での新型コロナウイルスによる各国の死亡者数である。ツイッターで広くリツイートされているものを、元データにあたってまとめ直してみた。
https://www.statista.com/statistics/1104709/coronavirus-deaths-worldwide-per-million-inhabitants/

【人口100万人あたりの死者数】
ベルギー        694
スペイン        544
イタリア        481
イギリス        432
フランス        376
オランダ        295
スウェーデン    272
アイルランド    272
アメリカ        210
スイス        210
カナダ        108
ポルトガル    103
エクアドル    92
デンマーク        85
ドイツ        84
イラン        77
オーストリア 68
パナマ        49
スロベニア    47
フィンランド 44
トルコ        42
ペルー     42
ルーマニア    42
エストニア    42
北マケドニア 41
ノルウェイ    40
モルドバ        37
ハンガリー    37
ブラジル        35
ドミニク共和国    33
プエルトリコ    30
セルビア        28
イスラエル    26
チェコ        24
ボスニア・ヘルツェゴビナ    24
クロアチア    20
:
韓国    5
:
日本    4

まずはこの数字が正しいとしよう。
人口100万人あたりの数字だから、国による人口の違いを考える必要はない。数をそのまま被害状況と理解すれば良い。
そのうえで、素直に、虚心に、先入観や偏見を持たずにこの数字を見ると、現在日本中に満ち満ちている政府や関係機関への悪意に満ちた批判の声とは裏腹に、意外にも、実際には日本の感染症対策が、世界的に見ても群を抜いて優れていることがわかる。日本すごいっ。

ような気がしただろうか。したでしょ。
それほどこれは、うまくできている資料である。
事実をもって虚偽を伝える典型的な例だ。

もとの数字に当たってみればすぐわかることだが、この調査で日本の順位は70番目で、調査の対象は140カ国である。いちばん少ないわけではない。真ん中くらいだ。それをあえて日本のところで切ることによって、日本こそがもっとも感染症対策に成功している国であるかのような印象を作り出すことに成功している。同じ数字を使っても、表示を人口1000万人あたりに直し、日本をいちばん上にして、日本よりも死亡者数が少ない国を69カ国ずらずら続けた長いリストとして示されたら、日本はおそろしく感染が広がっている国に見えるに違いない。

まあそんだけの話なんだが、情報というものは決して素のままの中性的なものではなくて、何らかの解釈が加わっているものだし、そのうちのかなりのものに、何かを伝えよう、何かを操作しようという意図が加わっているということは、忘れずにいたい。

ソクラテスって?

かつて東大総長の大河内一男は、卒業式で、J.S.ミルの言葉をもとに「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」と訓示した。いい言葉だ。この言葉はもちろん、生まれながらのソクラテスにではなく、油断していると太った豚になってしまう人たちに向けられている。ほかでもない、わたしやあなたのための言葉だ。

太った豚は決して堕落した豚ではない。むしろ豚として目指すべき理想の姿である。まるまる太っておいしそうな豚は、しかし誰にとっての理想なのか? 
どうやらこの言葉は、ただ怠惰を戒めているのではなく、見当違いな努力に警告をしているのではないか。

安定した仕事に恵まれた大人や生きるために働く必要のない学生の多くは、それぞれ仕事のことと学校のこと以外は、ほとんど何も考えずに過ごしている。与えられたごはんを食べて、少しのスペースに満足している。認めたくないことだけれど、これは紛れもなく「太った豚」の姿だ。勤勉に働きよく勉強していたとしても同じことだ。それはせいぜい寝てばかりいる豚と、よく運動する豚との違いに過ぎない。

豚とソクラテスとの違いは、与えられたエサ以外のことを考えられないか、自分で一から考えようとするかの違いに尽きる。エサというのが不快ならば、「生き方」「すべきこと」「生きがい」「目標」なんて言い換えてもいい。私たちはちゃんと考えているつもりでいるけど、それは多くの場合「人よりたくさんエサをもらうにはどうするのが有利か」という程度のことでしかない。私たちにはもっと根本から考える、あるいは考えようとする姿勢が必要なんじゃないか。

運転するためにはクルマがいる。クルマを動かすためには運転技術がいる。ガソリンがいる。同じように、考えるためには考える対象がいる。訓練もいる。自分を駆り立てる気持ちもいる。

豚とソクラテスとの違いをもう少し考えよう。豚は目の前に現実にあるエサしか見えていない。昨日のエサや明日のエサは豚にとってはまったく無だ。現在の豚にとっては、それらに意味がないというよりも、そもそもそんなものは存在していなかったし、あとにも存在しない。昨日も明日もない。豚にとって、あるのは今だけだ。

ソクラテスはそうではない。昨日のメシはもちろん千年前にもメシがあったことを知っている。ということは、ある出来事が起こったのは千年前でも、きのうのメシが今の自分の現実の中に想起できるように、そして今想起できる昨日のことはすでに現在の自分と切り離せないこととして存在するように、千年前のこともまた、それと同じかたちでいま存在する、ということだ。歴史というのは、そうやって自分自身の一部をなすものだ。

自分とは別のところに、自分とは関係なく存在しているように見えて、実はそれを学べば自分自身の一部になるものは、もちろん歴史だけではない。
古い江戸のことを知れば江戸の暮らしの断片がわたしの記憶の一部になるように、現在のベルリンのことを知れば、ベルリンがわたしの世界の一部になる。「魔の山」を読めばスイスの山の療養所がわたしの世界に現れてくる。さっきまでわたしの世界に存在しなかったものやことが、こうして現れ、根を下ろす。音楽も絵も外国語も数学も、みんなそうだ。それらに触れるまでは、それらはわたしの/あなたの世界には存在しない。知ればあなたの世界の一部をなし、あなたの世界がちょっと広がる。そういうものである。

わたしの/あなたの世界が豊かに満たされ、わたしの/あなたの景色が広がってくると、その広さ豊かさに応じた考えができるようになってくる。ソクラテスはきっと、その先にいるのだと思う。

いま読んでいる本

いろいろな本を同時に読んでいる。吉原幸子の「幼年連禱」。フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」。シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」。片桐洋一「古今和歌集全評釈(中)」。

どれも詩や断章ばかりだから、没頭して読み続けることがない。ヴェイユやペソアはそもそも難しすぎて没頭できるほど分からない。ずいぶん歳を取り、ずいぶん読んできたつもりなのに、まだまだ読めない本の方が多い。あーあ。

ソファに寝転がって詩を読み、夜寝る前にペソアを読み、風呂に入りながらヴェイユを読み、夜中に目が冴えてしまうと古今集を読む。

「幼年連禱」は、当時はどういう評価だったんだろう。今読むと言葉がすっかり古びてしまっている。吉原幸子は谷川俊太郎や入沢康夫とほぼ同年で、田村隆一や安東次男あたりよりもずっと年下なのに、どういうことだ。いや、不思議なのは、むしろいつまで経っても古びない言葉のほうか。実験的な新しい表現に挑んでいるのに、すぐれた詩は、半世紀たってもまだ新しい命を持っている。驚くべきことだ。

パチンコ2

近所のパチンコ店がきょうも営業を続けている。
いつまでたっても要請に応じない6店舗として、とうとう県の公式Webページに店名が公表されてしまった。剛の者である。

さっき買い物のとちゅうに通りかかったら、店の出口にひと組と、通りを渡ったところにもうひと組、テレビ局のクルーと思われる人たちが機材を備えて待っていた。きっと客の何人かはインタビューとかされちゃうんだろう。自粛要請されているのはご存知ですよね。どうしてパチンコやろうと思ったんですか。自分が感染源になることは考えないんですか、とかなんとか訊くのだろうか。そしたら客の方は、いやウイルスを移すつもりはないです。自粛って言っても気晴らしくらいしてもいいと思って。感染は怖いけどパチンコくらいしかすることないし、とでも答えるのだろうか。

きょうは何しろ、取材に来ている人たちが気になった。あの人たちは、何のために来たのだろう。取材して何を伝えたいのだろう。おそらく「強欲な店とそこに集まる思慮のない反社会的な人々」を求めて来ていると思われるが、そうした映像を作り出すことで、どういうメッセージを伝えたいのだろう。自粛を徹底させたいならみんなが自粛している映像を流すべきなのに、そうではない絵をわざわざ撮りに来ているのだから、これは、みんなで我慢しているのにその和を乱す人たちがいます!というメッセージによって、憎しみと分断をもたらそうとしているのだろうか。それとも、補償がないから営業を続けざるを得ないのだという店側の主張を取り上げ、庶民に負担を強いるばかりの行政に対する抗議の声を集めようとしているのか。どっちなんだろうね。両方織り込んでくれるのかもしれないし、この先は、夕方のニュースを見てから判断しようかね。


というわけで、放送されたニュースを見てみたんじゃが、案の定、店とお客を非難する構成になっていた。
こんなふうに自粛しない悪い人たちをニュースでさらすことが、広く自粛を促進する効果があるとは思えないが、まあそこは譲ってあるとしよう。ただそれでも報道の使命を考えると、店や客を責めるだけでは片手落ちだと言わざるをえない。

今マスコミが果たすべきは、世間の反感や非難をひりひり感じながらそれでも営業継続を選んでしまう人たちの事情にも、ひとしく目を向けることである。すなわち、行政は十分な補償をしていない、それが営業を継続しているそもそもの理由だ、ということをも、合わせて報じることである。

そうした報道は、ひとりひとりの生活を守るだけでなく、民主主義を守るためにどうしても必要なことだ。われわれはこれだけの権利を持ったこの国の主権者なのだ、ということを、機会あるごとに知らしめるのも報道の大切な役割であるはずだ。

報道にせよ政治にせよ、自分はこの仕事によってどんな社会を実現させたいのか、ということを忘れずにいてほしい。それだけで、いろいろなことが、すごくよくなるような気がするんじゃよ。

パチンコ

1ヶ月前にはすでに「営業自粛の要請」と称する強制によって、飲食店も小売店も映画館も旅行業も死にそうな打撃を被っていた。ところがなぜかパチンコ屋だけは、自粛要請の対象から長らく外されていた。誰がどう見ても不要不急の遊戯施設が公然と営業を続けていられるのは、おそらく政治的な利権絡みの案件なのだ、と噂されたのも当然だろう。

それがどういうわけか、ここへ来て突然様子が一変した。東京でも大阪でも自粛要請に従わない店は店名が公表され、パチンコ屋は一転世間の袋叩きに遭うことになったのだ。知事が先頭に立って、どこどこの店は私利私欲のために社会を感染の危険にさらす反社会的な悪徳業者ですぞー、と触れて回り、それが全国ネットでくり返し放送されるのだから強烈だ。とうぜん店には脅迫まがいの電話が殺到し、やむなく店を閉めた経営者は「行政による集団リンチだ」と憤る。手の平をいきなり返した陰には、さぞどろどろした事情があるのだろう。

さて、この件でほんとうに悪いのはパチンコ屋なのだろうか。生活の手段が奪われようとするとき、それに抵抗するのは悪いことなのか?
国内でウイルスのために亡くなった人は今の時点で約四百人。人口比でいうと、30万分の1である。一方、収入がなくなったら自分と家族の生活は確実に破綻する。30万分の30万だ。この現実の重さを忘れてはいけない。

なにしろ店の側としてみれば、営業自粛要請とは、水中でいきなり酸素ボンベを外されたような事態なのだ。つまり「今すぐ仕事は辞めてください。補償はしません」「すでに蓄えがある人以外は生きていけませんが、よろしく」と宣言されたにも等しい。彼らは(そしてわれわれは)備える間もなく広漠たる不安のただ中にぶっ飛ばされてしまったのだ。

誇張ではない。営業の自粛を迫るということは、とりも直さず生きる手段を捨てろと迫ることである。3ヶ月間店を開けられない人たちは、3ヶ月間収入がない。従業員を抱えていながら営業ができない会社は、お客さんが誰も来ない職場で、じー、じー、じーと1万円札をシュレッダーにかけ続けているような気持ちでいる。こうしたとき手持ちのお金が消えていくスピードは、恐ろしいほど(ほんとうに体が冷たくなるほど)速い。

東京や大阪の知事はじつに巧みな演出をしているが、いくら正義を装っても補償もせずに休業を迫る行政は暴力である。たしかに感染の拡大を防ぐためには、どんなことでもしなければならない。しかしそこで真っ先に求められるのは行政による救済であり、国民の犠牲ではない。それは国や自治体が予算を使って行う仕事であって、臣民の私財の供出に頼るべきものではない。

やはり国は、国民に犠牲を迫るより先に「家でおとなしくしているだけでこんなに貰えちゃった、でへへ得したー」と思わせるくらいのお金を使うべきだ。
なに、いくら使ったところでたかが数ヶ月のことである。店や会社なら簡単に潰れるが、国はそれくらいでは潰れない。ばんばん使って大丈夫だ。あとのことは生き残ってから考えればいいじゃないか。