月別アーカイブ: 2007年4月

やや故障気味

小さなことといえばそうなのだが、
数日前から少し手がしびれている。
ネットで調べると、中年おやじにはありがちなことで、
どこかで神経が圧迫されているとかいないとか。
いや、別に体の不調を訴えようとか、
体の不調と書いたら「体の婦長」と変換されて
おかしかったとか、
そういうことを言いたいわけではなく、
ただ人の体というものが実に精妙なバランスの上に
成り立っていることに今更ながら驚き、
同時にこの奇跡のようなバランスを
当たり前のように見なして、
明日も無事健康でいることを疑っていないというのは、
まあなんとも危なっかしい話だなあ、と思っただけだ。
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まったく、この体にどのくらいの神経が走っているのか
知らないけれど、
どんなコンピュータよりも複雑で高度な働きをする装置が、
何十年もほったらかしにされていながら、
暴走もせず、そこそこまともに働き続けていることは、
奇跡と呼ぶにふさわしい。
こんなすごいものをつかまえて、
”めちゃくちゃな変化を繰り返しているうちに偶然できたもの”
なんて言われても、どうもピンと来ないんだよなあ。
やっぱりこればかりは、神様のわざと信じたい。

連休は出かけよう

ゴールデンウィークが始まった。
教室は平常通り開けているが、たいへんお休みが多い。
まったくけっこうなことである。
休みの日に家族で出かける、というのは素晴らしい。
何しろ、おとうさん、おかあさん、子どもたちが
皆そろって出かけることができるのは、
家族の歴史の中でもごく短い間だけなのだ。
中でも親が子どもの世話をする、のではなく、
一緒に楽しむ、ことができる機会はおそらく何年も
続くものではなく、もしかしたら、
3度4度と数えられる程度なのではないだろうか。
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さっきお昼を食べに出たら、
ミカコちゃんがお出かけするのか、クルマの窓から
「せんせー」って手を振ってくれた。
ゴールデンウィークは、
引っ越し準備でそれどころじゃないのだけれど、
何だか無性に出かけたくなった。

すっかり別人

自宅リフォームのための引っ越しを控え、
部屋の整理にいそしむ毎日である。
捨て始めると、捨てることはけっこう楽しい。
考えるよりも先に片端から捨てるような有り様で、
使わない物はあらかた捨ててしまった。
日記も手紙も捨てた。
私の精神の遍歴をわずかなりとも残しているのは、
6年前から書いているweb上の雑記だけか。
過去をきれいにデリートしたような気持ちは、
すがすがしいようでもあり、
寄る辺を失った不安を押し隠した虚勢のようでもあり、
その両方が分けがたく絡み合っている。
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持ち物を整理していくうちに、気がついた。
いつの間にか年を取った。
かねてから、久しぶりに着る服はどうしてこんなに
似合わないのだろう、と不審に思っていたが、
古い写真を整理し始めて、すぐに合点が行った。
今や別人なのである。
服のサイズは変わっていないが、
全体としてみると、体形は別人である。
頬の肉付きも、目の周りの表情も、
似てはいるがまったく別人である。
これでは若い服が似合うはずもない。
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捨てることにきっちりと覚悟が決まったのは、
これが分かったせいかもしれない。
過去を懐かしむ何を残したところで、
すでに私は別人になっている。
あの頃の颯爽とした若さも、軽やかな歩みも、
沈欝な気分も、過剰な自意識も、哄笑も、
今の私からははるかに遠い。
だからと言って、老いを嘆きたいわけではない。
年を取らなければ味わえない楽しみがあり、
美しさがあり、
年を取らなければ語れないことばがあるのだから。
ただおじさんはおじさんらしく、
年齢にふさわしいその場所から、
若者に媚びることなく、流行におもねることなく、
年を重ねた者にしか語れないことばを語ればいい。
若者のように振る舞って、
若い時代にしがみつこうとするのではなく、
むしろ年齢にふさわしく
老いつつ成熟していく方が、
ずっとカッコいいんじゃなかろうか。

そうそう、これも

若いころは、格好いい道具が好きだった。
便利な機能どころか、使いやすさを犠牲にしても
構わなかった。
これはドイツのseca社の体重計。
高くて、重くて、精度も大したことないが、
今でも気に入っている。
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物というのはお金さえ出せば誰でも
手に入れられるものだから、
何を持っていようが偉くもなんともないんだけど、
機能よりも見た目、というあの頃の選択基準は
いさぎよくていい、と思う。

むかしの電話

と言っても黒電話ではない。
20年ほど前に買ったイスクラETA80。
1984年に日本でもグッドデザイン賞を受賞した
ユーゴスラビアの逸品である。
ずっと前に使わなくなってしまい込んであったのが、
本日の大掃除で発掘されたのだ。
ごらんのとおり、めちゃかっこいい。
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四半世紀もたって、いまだに美しいデザインというのは
めったにあるものではない。
20年前、リダイアル機能もないこの電話で、
松任谷由実のチケットを取るのに
じーころじーころ
4時間もダイアルし続けたことを思い出す。
しみじみ。
そう、ダイアルである。
ウチの子たちは、電話のダイアルの仕方を知らなかった。
受話器を取って、回して、放す、
の「放す」がうまくできないのだ。
やったことがないから仕方がないが、
やはり時代は変わっている。
われわれのあの頃は、いまや昔話である。

夜の公園

教室からの帰りに、よく公園を通る。
昼間の公園はこどもたちのものだけれど、
夜になれば、話は別。
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命知らずの野郎ども

久しぶりに吉野家に行ったら、
牛丼が復活していた。
狂牛病騒ぎがあった後も
吉ギューがアメリカ肉を使っているのは
誰もが知る事実だが、
さて、牛丼を注文する人はどれくらいいるものか。
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ま、半々ってところだろうと当たりをつけ、
豚丼をかき込みつつ観察してみたところ、
その割合は、なんと
12人中10人にも上ったのである。
これにはびっくりした。
だってアメリカの検査体制なるものが、
お話にならないくらいずさんなものだってことは、
新聞を読んで知っているだろうに、
怖くはないのだろうか。
いろいろ考えてみたのだが、
牛丼をもりもり食べちゃうみなさんは、
要するに
あちこちで目にするさまざまな報道を、
ちーとも真に受けていない、ということなのだろう。
今日は午後から雨になります、って言われても
傘を持たずに出かけるように、
個人的な実感だけをたよりにしているのだろう。
それはそれで悪くない。
判断の中心に自分がいるのはよいことである。
しかし、このように生死に関わるほどの
情報ですらほとんど顧みられていないということは、
この社会の現実は、派手な見かけに関わらず、
ちーとも情報化なんてされていなくて、
情報が、フィクションと同じレベルで消費されている
ってことなんだよなー。