月別アーカイブ: 2010年11月

買い物自慢

今日、ジーンズを買った。
ユーズドではあるが、
新品と言っても通るくらいのパリッとしたヤツである。
ついていた値札が800円。
それがセール中ということで、なんと560円。
ひゃほー。
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この店の前に寄ったジーンズショップでは、
リーバイスのいちばん安いのが、たしか8400円だった。
この519ってのがどんなジーンズなのかは知らないが、
なんか得した気分である。
いや、すごく得をしたに違いない。
え、そんなの500円で買えるよ、っていう書き込みは、
どうかご遠慮下さいませ。

ちょいとエールを

生存に必要なもの以外は、みな余計なものだ。
と言い切れるなら、悩みの大半は消えてしまうだろう。
人と比べないで、自分なりに生きていけばいい。
と信じられるなら、
悔しさに泣くことも、
嫉妬に身を焦がすこともなくなるだろう。
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きりのない成長を追うのではなく、ただ平凡に過ごせばいい。
と心底思うことができたなら、
いらいらすることもなく、心静かに暮らしていけるのだろう。
でも、そのときには、楽しみの大半も消えてしまうんだろう。
だったら、ま、多少のしんどさは、仕方がないか。
がんばれ、受験生。

ことばが奪ってしまうもの

近ごろぼくは、独り言を言う。
別に、もうろくしたわけではない。
おお、ひどい雨だな、とか、
いやあ、驚いたなあ、とか、
しまった、だめじゃん、とか、
そんなことを、
わざと口に出して言ってみるのだ。
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すると不思議なことに、その言葉は、
それがどんなものであれ、
頭の中で思っていることとは、
似て非なる、あるいは
似ても似つかないものに感じられる。
いやあ驚いた、と思っているときと、
いやあ驚いた、と口にしたときとでは、
同じ言葉の手触りが、まるで違うのだ。
口に出して聞こえる声は、
自分からのものではなく、
どこか他人から発せられたようである。
ちょうど自分の耳に聞こえる声と録音した声とが、
まるで違ったものに聞こえるように。
ウソだと思ったらやってごらんなさい。
思っている通りのことをそのまま口にしても、
全然本心とは感じられないはずだ。
何を言っても棒読みのセリフのようで、
自分の心ではない別のところから湧いて出たような、
妙な違和感が残るだろう。
このとき感じる「言葉のリアリティのなさ」は、
ちょっと衝撃的ですらある。
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言葉の力、なんてフレーズがよく使われるが、
こうやって、他ならぬ自分の発した言葉によって、
確かだったはずの実感が危うくなってしまうのを経験してみると、
言葉は大切だよね、などという分かったようなセリフを
安易に信じてはいけないような気がしてくる。
言葉はぼんやりしたものにはっきりした形を与える力とともに、
ぼんやりしたはかないものを台無しにしてしまう力もあるのだ。
面白いことに、口に出すかわりに文字で書いても、
こういう違和感は感じられない。
文字は初めから外部にあるものだからなのかもしれないし、
音に比べて生々しい存在感が薄いためかもしれない。
メモ帳代わりにボイスレコーダーを使うような人たちには、
こんな感覚はないのだろうか。
嘘くさいとか、空々しいとか、
そんなことは感じないのだろうか。
ことばに出して言ったとたん、
自分を包み込んでいたぼんやりとした空気が解けて、
それまでのわたしが、さあっと雲散してしまうような感覚を
感じたりはしないのだろうか。

熱田神宮で

拝殿の前に集まってくる人を
見るとはなしに眺めていた。
小さなバッグをたすきに掛けた年寄り夫婦。
玉砂利の上で足を引きずり、
疲れた足跡を残すおじさん。
手をつないだ若いカップル。
細身のスーツを着て
髪の毛を立てているおにいさん。
さっそうと歩く胸板の厚いビジネスマン。
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こういう人たちが、
鳥居のところに来ると、
足を止め、姿勢を正し、
それはそれは美しいお辞儀をするのだ。
鳥居をくぐる人も、出てくる人も、
かかとを揃え、背中を伸ばしてすっと礼をする。
驚いた。
長く生きてきた人には相応の経験があり、
足を引きずるおじさんは疲れ果て、
恋人たちの気持ちは浮き立ち、
きびきび歩く背広の人は自信にあふれている。
そうした人たちが、
それぞれの自意識をいったん置いて、ただ謙虚に頭を垂れる。
おれがおれが、ばかりの世間にあって、
まだこんなに美しい姿が残っていたのかと思ったら、
分別も、理屈も、どうでもよくなってしまった。

こんな夜には紅茶でも

食後に紅茶。
ホイップクリーマーに牛乳を入れ、温めて、
しゃかしゃか泡立てる。
しゃかしゃかしゃかしゃか。
ふんわり泡立つというわけではないが、気分は出る。
シナモンを軽く振って、
さっそくいただく。
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こういうちょっとした手間を惜しまないことで、
ささやかながら豊かな気分を味わうことができるわけだが、
このたび購入したホイップクリーマーで味わえたのは、
ほんとうに、気分だけだった。
こういうこともある。
ドンマイ。

さよならが言えなくて

塾の生徒の中に、挨拶のできない子がいる。
こんにちは、とか、こんばんは、は言えるのだが、
たまに、挨拶もしないでそっと帰ってしまうのだ。
まったく失礼な話である、ぷんぷん。
ってなことが言いたいわけではない。
無言で帰るのはたしかに無礼である。
しかし、じつはその無礼さは、
その子の礼儀正しい賢さに由来していることくらい、
ぼくにも分かっている。
その子は子どもに似合わないような配慮をもって、
ぼくに気をつかってくれているのだ。
ぼくが他の子を教えているのを中断するのは失礼だ、と彼は思い、
その結果、何も言わずに帰ってしまう、というわけだ。
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これには考えさせられる。
相手のことを思いやるがゆえに、そっと帰る。
ところがそのために、挨拶もできない子、
なんて思われてしまう。
逆に、相手の都合など何も頓着せず、
大きな声で、さようならって言える子は、
ただ無神経なだけなのかもしれないのに、
元気で礼儀正しい子とみなされる。
ふーむ。
以前にも書いたことだけれど、
ごめんなさいって言えない子も同じだ。
ものすごく悪いことをしてしまった、と
思っているからこそ、何も言えない。
逆に、素直に謝れる子は、
実は大して悪いとは思っていないからこそ、
さらっと口先だけで謝れる、のかもしれない。
ぼくたちは洞察力をそなえた大人として、
こういう挨拶のできない子、
ごめんなさいの言えない子のもつ密やかなよい子さを、
ちゃんと見つけてやりたいものだよね。

未来のぼく

タイムマシンがあったら、過去と未来とどっちに行きたいですか。
理由も合わせて教えてね。
ってなお題で作文を書かせてみた。
そのなかに、
未来に行って、大人になった自分を見てみたい
なんていうのがあった。
面白いな、と思った。
小学生の作文には、概して想像力が欠けている。
定型的な文章を並べることしかできない子どもが多い。
ぼくは月並みなことを無難に書いた作文よりも、
込み入ったことを書こうとして破綻した、
勇気ある作文を評価する。
んで、そのときも試しに訊いてみた。
そこで見た未来の自分がさ、
背が高くてスマートで仕事をばりばりこなす
やり手弁護士なんかだったら
いいかもしれないけどさ、もし
デブではげで貧乏でもてないおっさんだったら、
どうする?
そういう未来が待っていることを知りながら、
それでもきみは、
今みたいにこつこつ勉強を続ける気になるか?
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今の社会は、将来に希望がもてない社会だと言われる。
マスコミのみなさんが
どういう社会観を作りたいのかはしらないけれど、
しかし、こういう子どもの作文を読むと、
子どもはそれほど将来を悲観していないような気がする。
楽観は無知と似たところがあるけれど、
未来のぼくを見てみたいなあ、と無邪気に言える明るさがあれば、
それを支えるものが楽観だろうが無知だろうが、
構わないように思う。
知識や情報がそろって悲観を指し示すのであれば、
そういうものには目を向けず、
根拠もなくへらへら明るく進んだほうが、
もしかしたら正解なのかもしれないしね。

不安がないのも

迷子になったことがない、という子が多い。
お母さんと買い物に行っても、はぐれたことがないという。
驚きである。
近ごろの子は、方向感覚が特にすぐれているのだろうか。
そうではない。
むろん、携帯電話のおかげである。
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携帯電話は若い子の生活をすっかり変えた。
ひとり旅ですら、
いつでも連絡が取れるという安心感がある今となっては、
もう冒険ではなくなってしまった。
昔は携帯電話がなかったから、
いったん旅行をはじめると、もうすっかり普段の暮らしからは
切り離されてしまって、けっこう不安だったものだ。
公衆電話はあったけれど、たとえば家に電話しても誰も出ないとかね。
留守電に伝言を残す、なんていうこともできないんだよ。
伝言できても、電話をもらうってことができないんだよ。
不安だよね。
ATMもなかったから、手持ちのお金がなくなるとちょっと困った。
銀行の通帳を持っていても、今と違って他行で下ろせるようには
なっていなかった。
郵便局はさすがに全国ネットだったが、
郵便局ってのは、銀行と違って、
たいてい地元の人しか分からないようなところにあるもんだ。
そういうことを思うと、本当に便利になった。
便利になったということは、
いつでもどこでも日常の延長で過ごしていけるということだ。
ってことは、日常を離れた気分を、味わいにくくなっているということだ。
不安とか、寂しさとか、解放感とか、新鮮味とか。
いいとか、悪いとかではない。
ただ、ぼくたちは今、
人類が一度も経験したことのないまったく未知の世界を
生きていて、
いろんなことを得る代わりに、いろんなものを失っているんだな、
なんてことを思うわけさ。

あの、ぼく、いるんですけど

少し遅めの昼食をとっていたら、
奥のテーブルに、
幼稚園児を連れた母親グループがいた。
携帯電話が鳴った。
ひとりのお母さんが
席を立ちながら電話に出た。
出口の方に向かったから、
そのまま外に出るのかと思ったら、
ドアの近くに立ち止まって、
そこで話をし始めた。
たしかにお仲間からは十分離れているけれど、
ぼくからは3メートルと離れていない。
話はまる聞こえである。
その人にとって、お仲間は気をつかうべき相手だが、
見ず知らずの他人であるぼくのことは、
まったく眼中にないらしい。
面白いものだな、と思った。
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もしかしてもしかして、
いま幼稚園児の母親になっているこの人は、
数年前には、かの「電車の中で化粧する女性」だったのかもしれない。
身近な人の視線はたいへん気になるけれども、
知らない他人のことはまったく気にしない、
というあの恐るべき若者たちが、
今、そのままのメンタリティをもって母親になっている、という
ことなのかもしれない。
子どもたちは(もちろん)、きゃあきゃあ声を上げながら、
客もまばらな店内を駆け回っている。
ふーむ。

Freedom

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夜11時、どこからともなく現れた、クールな奴ら。
おじさんは、かばんからカメラを出して、
ふうふう走った。
ぜいぜいしながら、手持ちで撮った!
かっけー!