投稿者「komodakenzo」のアーカイブ

天然記念物

柴犬は「しばいぬ」なのか「しばけん」なのか。調べようと国語辞典を引いてみた。するとなんと。

しばいぬ【柴犬】体形は秋田犬に似て、小型の日本犬の通称。耳は立ち、尾は巻く。天然記念物。(新明解国語辞典七版)

とある。天然記念物!
天然記念物といえば、トキとかイリオモテヤマネコとかヒトカゲとかフシギダネのような、珍無類なものだけが選ばれるものだと思っていたのに、普通の権化たる柴犬が指定されているなんて、ちょいと驚きではないか。

もしかして天然記念物というのは、モンドセレクションとか、グッドデザイン賞とかモナコ国際映画祭のようなもので、ものすごく大したものだと思われがちだが、いわゆる、その、実はけっこうあれなやつなのかも知れない。

もう少し調べてみよう。

きねんぶつ【記念物】文化財保護法上の文化財の一。学術・歴史・芸術などの上で価値の高い遺跡や名勝地、動物・植物・地質鉱物。(大辞林四版)

なるほど、天然記念物とは、「天然が記念する物」とか「天然を記念する物」ではなく、「天然の文化財」ということだったか。こんな難しい言葉なのに、この言葉を知らない人がいないというのも、思えば不思議なことである。学校教育というのは意外と偏りがあるものだ。

不思議といえば、こういう例もある。
天然記念物の中でも、世界的に価値の高いものとして指定される国の特別天然記念物というのがある。動物ではタンチョウとかカワウソなどの21件だけだそうだが、この選び抜かれた記念物の中に、どういうわけか富山湾のホタルイカが入っているのだ。

食い物なのに特別天然記念物。
どう見ても無理筋な位置付けと思われるが、貴重なのはホタルイカそのものではなく、「ホタルイカの群遊海面」である、だからイカそのものは食べていい、という理屈らしい。そのおかげで、富山県は漁業と観光で潤い、われわれはおいしいイカを堪能することができるのだから、まあありがたいことである。

だが、それじゃいったい何のための指定なのか、訳がわからない。
保護はしたいがうまいものは食いたい。胸にしみる話ではある。

それだけじゃなく

新型コロナウイルスは、どんな人間にも分け隔てなく襲いかかる。しかし皮肉を込めていえば「上級国民」ほど優先的に検査を受けられ手厚い治療を受けることができ、その他の民草は繰り返し懇願しても検査すら受けられず、場合によってはあたら命を落としてしまうというのが、わが国の悲しい現実である。

こうした差別は何も医療に限ったことではない。「上級国民」は、その上級の程度にもよるだろうが、たとえば人のお金で毎晩のように豪華な会食を楽しむことができ、あるいは相当のことをやらかしても検察の捜査や起訴を逃れることができる(らしい)。彼らの力にあやかろうとするそれなりに上級の人たちは、彼らに群がりひれ伏しすがりつく。そしてまたその下の階層の人たちは自分よりちょっと上の人たちに群がりすがりつき……という構造が連鎖して広がっている(らしい)。

現代の階級というのは、かつてのように貴族や武士などというはっきりした形をとらないから、どこからが上級でどこまでが中級かなどという詮索には意味がない。しかし階層の切れ目がはっきりしないとはいっても、この社会がところどころに飛び越えられない大きな断層をもつ社会であることは明らかだろう。日本社会は現実をみれば、とうてい平等とはいえない社会なのだ。

こういう社会だから、子どもに努力をすすめ、少しでもよいポジションを目指すように教えるのはもちろん間違ってはいない。這いのぼるチャンスが与えられているのだから、それを活かして精進するのはもちろん正しいことである。スポーツでいえば、ひとつでもたくさん勝って大きい大会に進もうとするのと同じだから、正しいだけでなく美しいと言ってもいいくらいだ。

しかし、そんなふうに考えるだけ、でいいだろうか。子どもを教えるときに、「努力をしましょう、そうしたら自分の望む仕事に就けますよ、充実した楽しい人生が送れますよ」と励ますだけでいいのだろうか。

そうではないだろう。われわれは、社会の波に翻弄されて生きるものではあるけれど、同時にまた、社会を作り上げ動かす力をも与えられている。だったら不公平な社会の中で少しでも優位を確保しようとするだけでなく、不公平さそのものを正そうとする気持ちもまた、われわれは、そしてわれわれの子どもたちは、持っていなければならないのではないか。

勝つことはいいことだ。しかし、公正で公平なこともいいことだ。スーパープレイは素晴らしい。しかしフェアプレイも素晴らしい。こういうあたりまえの良識を育てることも、教育の大事な役割である。残念ながら今の教育は、自分のために力をつけるということに傾きすぎていて、社会正義に目を向けることがあまりに少ない。

社会に生きる者の責任というのは、人に迷惑をかけないで生きるということに尽きるのではない。一所懸命働いてよい製品やサービスを届けることだけでもない。きちんと税金を払うことだけでもない。

そういう消極的な義務を果たすだけじゃなく、誰も踏みつけにされず、搾取されず、晴れ晴れとした気持ちで過ごせるような社会を実現するために、正義と自由と公正によって運営される社会に近づくために、自分の力をちょっと使う。そんなささやかな公共心を持つこともまた、社会に生きるわれわれの責任なんじゃないかと思う。

抗議する権利

日本の学校では、声を上げることが事実上禁じられている。
このあたりの中学校では、「髪が肩にかかったら結ばなければなりません、靴下は白、靴も白」などという理不尽な校則が、何十年も見直されることなく当然従うべきものとして与えられている。それに対して声を上げることは許されない。

日本の道路交通法によれば、オートバイの免許は満16歳でとってよいことになっている。しかし事実は都市部のほとんどの高校では免許取得は禁止され、バレたら停学ヘタすりゃ退学である。多くの人が、不思議にも思っていないだろうが、このように国が認めていることを(たかが)学校が(まるで権威あるもののように)禁止しているのは、妙な事態ではないか。

しかしここで言いたいのは、校則が理不尽であるということではなく、理不尽な校則にもただ唯々諾々と従うことが正しいと思い込まされている子どもたちが気の毒だということであり、そうやって権威に従順に従うことだけを教え続けていて、果たして日本は民主国家になれるのか、ということである。

非常に嫌な、面倒な、うんざりする話ではあるけれど、子どもたちには、秩序を守ることとともに、理不尽な抑圧や権利の蹂躙に対しては誰もが抵抗する権利・抗議する権利があるのだ、ということをも教えなくてはならない。われわれの社会は、すでにそういう段階に差し掛かっている。権利が侵害されようとするとき、そうする以外に権利を守る方法はない。

抵抗する権利を教えるというのは大変なことだ。子どもたちに、ほかでもないわれわれに対して叛旗を翻すことを認め、われわれはそれと真摯に対峙しなくてはならないからだ。子どもたちの抗議に対して、叱りつけて抑え込むようなことをしてはいけない。与党の皆さんの使う特殊な意味ではなくほんとうの「ていねいな説明」をしなくてはならない。無意味な言葉を繰り返して相手の嫌気を誘うのではなく、難しい言葉で相手を丸め込むのでもなく、巧みに論点をずらして問いかけとは違った答を返して煙に巻くのでもなく、正しく向かい合って聞くべきことを聞き、伝えるべきことを伝えるのである。

なんなら毎年生徒たちと議論をして、一年限りの校則改訂を認めてやる、なんてことをカリキュラムに組み込んでもいいかもしれない。きっといろいろなことを考えるきっかけになる。どうでもいいテーマについて口先だけのディベートごっこをするよりずっといい。

秩序を維持するために、ある程度人権が制限されることはやむを得ないのか、もしそうならそのある程度とはどういうレベルをいうのか。あるいはある生徒たちに楽しくのびのび過ごす権利を認めた結果、ほかの生徒の学習環境が悪化するようなことがあったらどうするのか、そもそも学生にとってはどういう権利が優先されるべきなのか、なんてことを考えさせるよい機会になるだろう。

模擬授業などではない。ほんとうに中学生や高校生に、「君たちには意見を表明する権利がある。抗議し抵抗する権利がある」と教えてやるのだ。そして実際に彼らの抗議を受け止め、ときに跳ね除け、ときに譲歩し、ともによいルールを作り上げて行く。そしてほんとうに校則を変えてしまう。学校は管理施設ではなく営利団体でもなく、教育機関=トレーニングセンターなのだから、失敗してもいい、そういう経験をたっぷりさせてやればいい。そうすれば、何より権利はみずから勝ち取るものであり、社会は働きかければ変えうるものであるという民主主義の大事な部分を実感できるだろう。

そんなことをしたら学校が崩壊する、という心配は当然ある。しかし、管理の行き届いた学校というものは、子どもたちに盲従を強いてまで守らなければいけないものなのか。それがいちばん大切なものなのか、もしかしたら学校の秩序を保つことより、もっと大切なことがあるのではないか、ということから考え直してみてはどうだろう。

これは暴論ではない。たとえば中国のような管理が行き届いていて安全だけれど不自由な国と、イタリアのように管理はぼろぼろだけれど自由な楽しい国とのどちらが良いかということは、簡単には決められない。そういうことである。

それに、たとえ子どもたちの運動によって学校の秩序や風紀が大きく乱されたとしても、その苦い経験が、やがて主権者としての成熟した考えや行動に結びつくなら、これはひとつの大きな教育の成果といえないだろうか。

自分たちが闘い、次の世代に遺産を残すということを一度体験した子どもたちは、きっと意見の言える国民として育って行くんじゃないか。

こんな話は無責任な放言かもしれない。しかしこういう実践以外に、民主主義を育て根づかせる方法はあるだろうか。

マスクきたきた

ついにわが家にも、あのあのあのマスクがついについに届きました。

マスクを縫うのは大変な仕事です。マスク運ぶのも、配るのも大変です。縫ってくれた人、届けてくれた人、ありがとう。政府のすることは完全ではないかも知れないけれど、働いてくれた人たちの努力を、笑ったり馬鹿にしたりしていいはずがありません。それは政治的な主張以前に、人として間違っています。必死で働いてくれた人たちに感謝するのは当然です。ありがとう。

と思う気持ちは美しいと思う。素直で無垢で善良だ。
しかし、これは先の戦争で国や軍部の犠牲になった人たちに対して、兵隊さんありがとう、と感謝を捧げるのと同じ構造ではないのか。感謝の気持ちは尊いが、この感謝は同時に国の無能や非道を覆い隠し、それに対する批判を封じる役目をも果たしてしまう。

なぜならわれわれが感謝できるのは、価値あるものに捧げられた犠牲に対してだけだからだ。そうでないときに抱くのは、感謝であるよりむしろ悲嘆であり哀憐である。国に見捨てられ飢えて死んだ人たちに向かって「兵隊さんありがとう」とはふつう言えない。

だから「ありがとう」と言うためには、その戦争は、何としても国を守る尊い戦いだったとするしかない。兵士に対する感謝と兵士が仕えたもの(国)の美化とは常に一体なのである。

くだんのマスクも同型である。マスクを作り届けてくれた人たちに、かつての兵隊さんに対するような感謝を抱くとき、われわれは国を美化しないでいることはできない。まったく無意味で不要な仕事をしてくれてありがとう、とは言えないのだ。ありがとうと言うためには、みんなのために良いことをしてくれた、とみなす他はない。

しかしこれはおかしいだろう。働いてくれた人に感謝したい。だからアベノマスクは素晴らしい政策だと思います、というのは完全に論理が転倒している。それだけでなく、人のよい良心的な人ほど批判が封じ込められてしまうという構造を持つ点で、見逃してはならない危険を孕んでいる。

感謝の気持ちは間違いなく尊い。しかし本来なら感謝を受けるにふさわしい仕事ができる人たちに、かくも馬鹿げた無意味な仕事をさせてしまったのだ。どんな利権が絡んでいたのか知らないが、そういう愚行の旗を振った連中にはもっともっと怒っていい。

今度こそ、みんなで選挙に行きましょう。

親しい人こそ

風薫る五月という表現が実感できる、ほんとうに気持ちのよい日だった。
午後3時過ぎに近所の公園を通りかかったら、よいお天気に誘われて集まったのだろう、幼稚園児と小学生とその親が、いるわいるわ。ブリューゲルの「子供の遊戯」を思い出すくらい、まああっちもこっちもそれは賑やかだった。子どもはもちろん親同士も、日差しを避けて木陰に集まるからもう肩が触れるくらいの距離でおしゃべりに花を咲かせている。まもなく緊急事態宣言が解除されると聞いて、ひと足早く安心してしまったようだった。

新型コロナウイルスは、悪くすると死んでしまう非常に恐ろしいものである。しかし公園で楽しげに談笑するみなさんから、そんな不安は感じられない。県外ナンバーの車に「来るな」なんて張り紙をしてしまう人がいる一方、このようにまったく平気な人もいるのはどういうことなのか。

おそらくみなさんは、ウイルスが人格的な「悪の使い」か何かと思っているのではないか。このウイルスは、素性も分からない邪悪なよそ者が悪意をもって持ち込んで来るものであって、ずっと親しくしている親切で人のよい誰々さんが運んで来ることなんてありえない、と思ってはいないか。

言うまでもなく、ウイルスを持っているかどうかは相手の人格やわたしとの親密さなどとは何の関係もない。悪気のありなしとも何の関係もない。どんな善良な人でも、どんなに思いやり深い人でも、ウイルスは区別なく配慮なく入り込み、拡散する。

スーザン・ソンタグが「隠喩としての病」の中で、病気が悪徳や穢れの現れとして捉えられ、やがて蔑視や差別に繋がっていくようすを描いていたが、現在の日本ではそれとは逆に、「私と親しいこの人に限ってウイルスなんて持っているはずがない。だってこんなにいい人なんだから」という、わけの分からない油断が蔓延している気がしてならない。親しい=善良=清潔=無害というようにイメージが連鎖してしまっている。よそ者の排斥は、これが反転した形である。

たしかにウイルスには邪悪なイメージがある。だがそれは何の根拠もない単なるイメージに過ぎない。ウイルスの出現や蔓延は一種の自然現象であって、雨や風や地震や雷と同じように、善人にも悪人にも等しくやって来るものだ(そう言えば、ブリューゲルにはペストが見境もなく人々を襲う「死の勝利」という不吉な作品もあった)。

早い話、病気は親しい人からうつるのだ。もう少し距離を取って、みんなでちゃんと生き残ろうぜー。

天啓のように

夜明け前に目が覚めた。
美しい言葉が降りて来て、詩になった。

Do site motto come cure hen?
So I want!
Come quit aim on!
One gay!

いちおう日本語訳もつけておきますね。

どうしてもっとコメくれへん?
そう言わんと!
コメ食いたいもん!
お願い!

Him a day one

みなさんお察しのとおり、長らく触った気配もなかったこの日記が、ここのところ毎日のように更新されている。こんなにしょっちゅう書くなんて10年ぶりくらいかなあ。えっ、ああ8年ぶりか、そんなもんかね。

久しぶりに書く気になったのは、現政権のやり方に我慢がならんとか、未曾有の感染症による社会の変容に臨んでひとこと言いたいとか、いろいろ動機はあるんだが、決定的なのは、仕事ができず暇になったということだ。

思えば大学卒業以来、35年ぶりの長期休暇である。しかし暇を暇として楽しむというのは達人にしてはじめてなし得ることで、凡夫はせっかくの暇を持て余し、家の掃除とか料理とか、わざわざ用事を作って埋めてしまうものだ。

先日も(はじめて)ナンを作るのにドライイーストを買おうと思ったら、スーパーを何軒回っても品切れだった。ふだんやらないピープルたちが、ヒマ対策にパンでも焼いているのであろう。まったく迷惑なことである。

というぐあいに、わたくしもこの休業期間中は、仕事のように真剣に、とにかく料理にいそしんだのであった。ぱらぱらチャーハンの極意も会得したし、チキンカチャートラとかシュクメルリとか知らない料理もずいぶん作った。冷蔵庫にある材料で何とかすることもちょっと覚えた。自分の手から何かが生まれるというのは、やっぱり楽しい。上達するとか工夫するとかおいしいとかほめてもらうとか喜んでもらうとか、そういうのはいいねー。

ただ、一日中料理して食べてばかりを続けているうちに、質量保存の法則って言うんですか、笑って済ませられないくらい体が巨大化してきてしまい、もう腹回りなんて、この通りですわ、ばんばん。わっはっは。

というわけで、料理だけでは暇はつぶせないし体形にも悪いことを学んだのだが、さりとてテレビはあんまり見ないし、Netflixには加入しているが、かわいそうな映画と痛い映画とはらはらする映画とラブストーリーと意地悪な奴が出て来る映画と人が死ぬ映画と難しい映画とテッド以外の下品なコメディが苦手なので、あんまり見るものがない。

その結果、本をたくさん読んでいます。たくさんと言うより、長い時間だな。読んで、えーとと考え、あ、さっきのはそういう意味かと気づいたらまた戻って、という具合に読んでいるからちっとも進まない。読んでいるのか遊んでいるのかわからない。贅沢だなあ。

お分かりでしょうが、今日は何かが言いたいわけではなくて、ただ暇つぶしに書きました。タイトルを英語だと思った人はもっと勉強してくださいね。ばいばい。

やっぱりイケメンの勝ち

われわれが誰かの意見に対し共感したり反発したりするときに、純粋に意見の内容だけを根拠に賛否を判断していることはほとんどない。
何となく好感を抱いている人の意見だから賛成、嫌いな奴の意見だからとにかく反対ということが実は多い。実際Twitterなどを眺めていて、記事を読んだときにはこれといった感想を持たなかったのに、投稿者の名前を見たとたん、あ、これはけしからんわ、なんて判断したりしてはいないだろうか。

このことは文章の巧拙にも言えることだ。文章がうまいと意見も正しい、下手だと内容までも下らない、なんて思えてしまう。よほど主体的に読んでいないと必ずと言っていいほど陥る落とし穴だ。本来は、文章の心地よさや面白さと、内容の重さ深さとは無関係のはずだが、なかなかそうは思えない。

われわれはふだんの生活の中で膨大な文章を目にしているが、それらのほとんどは読んでいるというよりも、ただ目に見えているだけであり、ひとつひとつのことばやその連なりを、いちいち受け取り反芻し理解し記憶しているわけではない。

それどころか文章はただ背景のように流れていき、ときどき印象的な単語やフレーズに出会うとそこだけがかろうじて意識に残る、という程度がせいぜいだろう。すべての文字列に細心の注意を払いいちいち真剣に吟味するような読み方は日常的なそれではない。緊張も集中もなくぼんやり読んでいるのが一般的で、そしてこういう読み方をしているときには(つまりほとんど常に)、内容の如何にかかわらず目に美しく耳に心地いい文章を好もしく思い、筆者の主張をその内容を問わずに受け入れてしまうものである。

ちょうどテレビを見ているとき、こいつの言うことは(顔も声も話し方も嫌いだから)信用できない、この人の言うことは(誠実そうだし口調も好感が持てるから)正しい、とつい判断してしまうのと同じである。

これが意味するのは、大衆社会において、情報を正しく伝えそれに基づいて各人が正しい判断をなし、もって最適な合意が形成される、ということは絶望的に難しいということだ。

社会の成員の大多数が、テレビや新聞やネットニュースやSNSで発信される膨大な情報のひとつひとつについて、顔や声や口調や文体に惑わされず、集中し内容を吟味し論理の展開を丁寧に追って、メッセージの内容そのものを公平に評価するようになる、なんてことは決してありえない。

理屈というものは残念ながら、伝えるのには時間がかかる。受け取る側にも根気がいるし、ある程度の基礎知識や理解力が必要な場合も多い。

それに対して見た目とか語り口といったイメージの方は、聞き手の努力を要せず一瞬で伝わり、強烈な印象を残す。シェイクスピアの劇中に、カエサルの死を悼むアントニウスの演説によって群衆が興奮し暴動を起こす場面があるが、民衆をそこまで駆り立てたものは、彼の雄弁ではなく整然とした理路でもなく、壇上で広げられたカエサルのトーガであった。鮮血に染まったただ1枚のトーガである。

われわれの判断力は、昔も今もそんな程度だ。自分の賢さを過信せず、うまい言葉や見た目のきれいさに、だまされないようにしましょうね。

本当だってば

直接目で見ること以外は、人に言われたことを信じるしかない。地球が丸いとか、火星には生き物がいないとか、聖徳太子が何をしたとか、白血球がどうしたとか、低気圧がどうなったとか、実際には自分じゃ確かめられないことばかりだ。統計数字もそんな面があって、その数字が正しいものかどうか、直接調査と集計をした人以外は知りようがない。

だからとりあえずそのまま数字を信頼するしかないんだが、中には数字そのものは正しいとしても、解釈を歪めたり都合のよい数字だけを持ち出したりする人がいるからたちが悪い。あるいは自分で解釈するときでも往々にして自分の望んでいる結論に引きつけて数字を読み取ってしまう。

ちょっと長いが次のリストを見てほしい。2020年5月5日現在での新型コロナウイルスによる各国の死亡者数である。ツイッターで広くリツイートされているものを、元データにあたってまとめ直してみた。
https://www.statista.com/statistics/1104709/coronavirus-deaths-worldwide-per-million-inhabitants/

【人口100万人あたりの死者数】
ベルギー        694
スペイン        544
イタリア        481
イギリス        432
フランス        376
オランダ        295
スウェーデン    272
アイルランド    272
アメリカ        210
スイス        210
カナダ        108
ポルトガル    103
エクアドル    92
デンマーク        85
ドイツ        84
イラン        77
オーストリア 68
パナマ        49
スロベニア    47
フィンランド 44
トルコ        42
ペルー     42
ルーマニア    42
エストニア    42
北マケドニア 41
ノルウェイ    40
モルドバ        37
ハンガリー    37
ブラジル        35
ドミニク共和国    33
プエルトリコ    30
セルビア        28
イスラエル    26
チェコ        24
ボスニア・ヘルツェゴビナ    24
クロアチア    20
:
韓国    5
:
日本    4

まずはこの数字が正しいとしよう。
人口100万人あたりの数字だから、国による人口の違いを考える必要はない。数をそのまま被害状況と理解すれば良い。
そのうえで、素直に、虚心に、先入観や偏見を持たずにこの数字を見ると、現在日本中に満ち満ちている政府や関係機関への悪意に満ちた批判の声とは裏腹に、意外にも、実際には日本の感染症対策が、世界的に見ても群を抜いて優れていることがわかる。日本すごいっ。

ような気がしただろうか。したでしょ。
それほどこれは、うまくできている資料である。
事実をもって虚偽を伝える典型的な例だ。

もとの数字に当たってみればすぐわかることだが、この調査で日本の順位は70番目で、調査の対象は140カ国である。いちばん少ないわけではない。真ん中くらいだ。それをあえて日本のところで切ることによって、日本こそがもっとも感染症対策に成功している国であるかのような印象を作り出すことに成功している。同じ数字を使っても、表示を人口1000万人あたりに直し、日本をいちばん上にして、日本よりも死亡者数が少ない国を69カ国ずらずら続けた長いリストとして示されたら、日本はおそろしく感染が広がっている国に見えるに違いない。

まあそんだけの話なんだが、情報というものは決して素のままの中性的なものではなくて、何らかの解釈が加わっているものだし、そのうちのかなりのものに、何かを伝えよう、何かを操作しようという意図が加わっているということは、忘れずにいたい。

ソクラテスって?

かつて東大総長の大河内一男は、卒業式で、J.S.ミルの言葉をもとに「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」と訓示した。いい言葉だ。この言葉はもちろん、生まれながらのソクラテスにではなく、油断していると太った豚になってしまう人たちに向けられている。ほかでもない、わたしやあなたのための言葉だ。

太った豚は決して堕落した豚ではない。むしろ豚として目指すべき理想の姿である。まるまる太っておいしそうな豚は、しかし誰にとっての理想なのか? 
どうやらこの言葉は、ただ怠惰を戒めているのではなく、見当違いな努力に警告をしているのではないか。

安定した仕事に恵まれた大人や生きるために働く必要のない学生の多くは、それぞれ仕事のことと学校のこと以外は、ほとんど何も考えずに過ごしている。与えられたごはんを食べて、少しのスペースに満足している。認めたくないことだけれど、これは紛れもなく「太った豚」の姿だ。勤勉に働きよく勉強していたとしても同じことだ。それはせいぜい寝てばかりいる豚と、よく運動する豚との違いに過ぎない。

豚とソクラテスとの違いは、与えられたエサ以外のことを考えられないか、自分で一から考えようとするかの違いに尽きる。エサというのが不快ならば、「生き方」「すべきこと」「生きがい」「目標」なんて言い換えてもいい。私たちはちゃんと考えているつもりでいるけど、それは多くの場合「人よりたくさんエサをもらうにはどうするのが有利か」という程度のことでしかない。私たちにはもっと根本から考える、あるいは考えようとする姿勢が必要なんじゃないか。

運転するためにはクルマがいる。クルマを動かすためには運転技術がいる。ガソリンがいる。同じように、考えるためには考える対象がいる。訓練もいる。自分を駆り立てる気持ちもいる。

豚とソクラテスとの違いをもう少し考えよう。豚は目の前に現実にあるエサしか見えていない。昨日のエサや明日のエサは豚にとってはまったく無だ。現在の豚にとっては、それらに意味がないというよりも、そもそもそんなものは存在していなかったし、あとにも存在しない。昨日も明日もない。豚にとって、あるのは今だけだ。

ソクラテスはそうではない。昨日のメシはもちろん千年前にもメシがあったことを知っている。ということは、ある出来事が起こったのは千年前でも、きのうのメシが今の自分の現実の中に想起できるように、そして今想起できる昨日のことはすでに現在の自分と切り離せないこととして存在するように、千年前のこともまた、それと同じかたちでいま存在する、ということだ。歴史というのは、そうやって自分自身の一部をなすものだ。

自分とは別のところに、自分とは関係なく存在しているように見えて、実はそれを学べば自分自身の一部になるものは、もちろん歴史だけではない。
古い江戸のことを知れば江戸の暮らしの断片がわたしの記憶の一部になるように、現在のベルリンのことを知れば、ベルリンがわたしの世界の一部になる。「魔の山」を読めばスイスの山の療養所がわたしの世界に現れてくる。さっきまでわたしの世界に存在しなかったものやことが、こうして現れ、根を下ろす。音楽も絵も外国語も数学も、みんなそうだ。それらに触れるまでは、それらはわたしの/あなたの世界には存在しない。知ればあなたの世界の一部をなし、あなたの世界がちょっと広がる。そういうものである。

わたしの/あなたの世界が豊かに満たされ、わたしの/あなたの景色が広がってくると、その広さ豊かさに応じた考えができるようになってくる。ソクラテスはきっと、その先にいるのだと思う。