やっぱりイケメンの勝ち

われわれが誰かの意見に対し共感したり反発したりするときに、純粋に意見の内容だけを根拠に賛否を判断していることはほとんどない。
何となく好感を抱いている人の意見だから賛成、嫌いな奴の意見だからとにかく反対ということが実は多い。実際Twitterなどを眺めていて、記事を読んだときにはこれといった感想を持たなかったのに、投稿者の名前を見たとたん、あ、これはけしからんわ、なんて判断したりしてはいないだろうか。

このことは文章の巧拙にも言えることだ。文章がうまいと意見も正しい、下手だと内容までも下らない、なんて思えてしまう。よほど主体的に読んでいないと必ずと言っていいほど陥る落とし穴だ。本来は、文章の心地よさや面白さと、内容の重さ深さとは無関係のはずだが、なかなかそうは思えない。

われわれはふだんの生活の中で膨大な文章を目にしているが、それらのほとんどは読んでいるというよりも、ただ目に見えているだけであり、ひとつひとつのことばやその連なりを、いちいち受け取り反芻し理解し記憶しているわけではない。

それどころか文章はただ背景のように流れていき、ときどき印象的な単語やフレーズに出会うとそこだけがかろうじて意識に残る、という程度がせいぜいだろう。すべての文字列に細心の注意を払いいちいち真剣に吟味するような読み方は日常的なそれではない。緊張も集中もなくぼんやり読んでいるのが一般的で、そしてこういう読み方をしているときには(つまりほとんど常に)、内容の如何にかかわらず目に美しく耳に心地いい文章を好もしく思い、筆者の主張をその内容を問わずに受け入れてしまうものである。

ちょうどテレビを見ているとき、こいつの言うことは(顔も声も話し方も嫌いだから)信用できない、この人の言うことは(誠実そうだし口調も好感が持てるから)正しい、とつい判断してしまうのと同じである。

これが意味するのは、大衆社会において、情報を正しく伝えそれに基づいて各人が正しい判断をなし、もって最適な合意が形成される、ということは絶望的に難しいということだ。

社会の成員の大多数が、テレビや新聞やネットニュースやSNSで発信される膨大な情報のひとつひとつについて、顔や声や口調や文体に惑わされず、集中し内容を吟味し論理の展開を丁寧に追って、メッセージの内容そのものを公平に評価するようになる、なんてことは決してありえない。

理屈というものは残念ながら、伝えるのには時間がかかる。受け取る側にも根気がいるし、ある程度の基礎知識や理解力が必要な場合も多い。

それに対して見た目とか語り口といったイメージの方は、聞き手の努力を要せず一瞬で伝わり、強烈な印象を残す。シェイクスピアの劇中に、カエサルの死を悼むアントニウスの演説によって群衆が興奮し暴動を起こす場面があるが、民衆をそこまで駆り立てたものは、彼の雄弁ではなく整然とした理路でもなく、壇上で広げられたカエサルのトーガであった。鮮血に染まったただ1枚のトーガである。

われわれの判断力は、昔も今もそんな程度だ。自分の賢さを過信せず、うまい言葉や見た目のきれいさに、だまされないようにしましょうね。