ハンパな安全じゃ、満足できないぜ。
聖林寺のディープな人たち
今日からALPはなぜか夏休みである。
今朝は睡眠3時間でぱっちり目が覚めた。
遠足の日の小学生と同じレベルと言うなら言え。
で、聖林寺に十一面観音を見に行った。
いやあ、じつにじつに素晴らしかった。
どの写真で見るよりも、ずっと柔らかく美しかった。
仏像にも写真写りってもんがあるんだねえ。
たったひとつの仏像の前で、気がつけば1時間半も経っていた。
その間に来た人は、わずかに4組。
しかし、数は少なくとも、交通の便もひどく悪いこのお寺に
わざわざ来るというのだから、
みなさんそれなりの思い入れ持っていて、これがまた強烈だった。
カルチャーセンターのツアーとおぼしきご一行は、
先生の解説を聞きながら、なんてきれいな仏さまだろうねえ、
なんて言い合っている。はたで聞いているだけでも
こういうのは気持ちがいい。
そのあとにひとりでやってきたおばさまは、
先代の住職のころからの常連らしく、
いついつの法要の時にはこんな様子だったんですよ、
なんてことを話してくれる。
あまり詳しいからてっきり近所の人かと思っていたら、
なんと福岡にお住まいだとか。
横浜から来た夫婦連れは、ごく普通の方ながら、
それでも今日で4回目だという。
最後に来たのは、
この仏像の失われた光背の研究をしている、という人。
文化庁の要請でここはこうやって修復したが、
この台座のもともとの形はもっとここがふわっとふくらんで
いたはずだ、なんて話を教えてくれる。
ひとりでじっと見ていた時間もよかったけれど、
あの人たちのディープな話も、おもしろかった。
やっぱ仏像って、いいわ。
ひと安心
他のパソコンで確かめたら、
本家のサイトは異常なく表示されていた。
やれやれ。
それにしても、パソコンなしには過ごせないような
暮らしをしているくせに、
ちーともパソコンのしくみを理解していないというのは
怖いような話だ。
もっとも、まったくクルマのしくみを理解しないでクルマに乗り、
まったくクスリの成分を知らずにクスリを飲むようなありさまは
今日では当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。
やってしもた!
本家ALPのサイトを今より安い場所に引っ越ししようとしたところ、
ちょっとした手違いと言いますか、その、何だ、
まあ要するに、ページがまったく表示できなくなってしまいました。
サイトのURLを指定すると、リンククラブのページに飛んでしまいます。
一時的なことだと思いますが(だといいのですが)、修復まで
いましばらくお待ち下さいまし。
別に閉鎖しちゃったわけではないので、
ヘンなことを言いふらさないでくださいね。
めそめそ。
歩く抜け殻
おとといの夜、歩道をのそのそ横切っているところに遭遇した。
はっきり言って虫は大っ嫌いなのだが、
不覚にも、見入ってしまった。
今年はまだ蝉の声を聞いていないから、
あるいはコイツが一番乗りかもしれない。
しっかり鳴けよ。
立ち読み禁止
いいのよっ、おばちゃんは。
七夕の願い
むりだと思う。
物覚えが悪くても
四十を過ぎれば当たり前だが、
ちょっとばかり記憶力が衰えてきたようだ。
これは筋力が衰えたり、視力が衰えたりするのと同じで、
しごく自然な成り行きなのだけれど、
若い溌剌とした時代が、生きている限りもう2度と
訪れないかと思うと、軽いショックを覚えもする。
で、最近は、衰え行く記憶力に活を入れるべく、
パソコンと携帯電話でもって、
役にも立たないことを覚えては遊んでいる。
すなわち、
青空文庫あたりで気に入ったテキストを拾ってコピーして、
メールでケータイに送っておくのだ。
すると携帯電話は、
いつでも見られる単語カードのように機能する。
これは、すこぶる便利である。
教室までの行き帰りを、ちらちら見ながら歩く。
ぶつぶつ口に出してみる。
銀行や郵便局で待つ間も、
メールをチェックするように
気に入った詩を少しずつ読んでいる。
先週はこの方法で、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の
「ああ大和にしあらましかば」を半分おぼえた。
ああ、大和にしあらましかば、
今神無月、
うは葉散り透く神無備(かんなび)の森の小路を、
あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ
斑鳩(いかるが)へ。
で始まる長い詩である。
詩集を読むだけでは、ちっとも頭に入らなかったが
けっこういける。
萩原朔太郎の詩のいくつかも、メールで送って
入れてある。
「利根川のほとり」とか「桜」とか。
そんなもん覚えてどうするんだ、とは言わないでほしい。
脳を鍛えるトレーニング、などと称して、
まるで無意味な単純計算を繰り返すより、
よっぽどよいではないか。
そもそも詩の味わいは、ただ読んでいるだけよりも、
覚えてしまった方が、はるかに深い。
ま、そんなことはともかくさ、
少しずつでも何かが覚えられるってのは、
なんともうれしいものなのよ。
いいよー、ケータイ。
すげーな、ウォーレン
世界一の金持ちのビル・ゲイツ氏が私財の大半を寄付する
と聞いたときにはぶったまげたが、
世界第二の金持ちのウォーレン・バフェット氏が
これまた4兆円あまりを慈善事業に使うと知ってさらに驚き、
その驚きもさめやらぬうちに、
今度はかのジャッキー・チェンが150億円とも言われる
資産の半分を寄付するというニュースが流れて、
もうわたしゃひっくり返ってしまいました。
どうやら「自分が死んでから」という条件らしいが、
それにしてもすげーだろ、これ。
そういえばマイケル・ジャクソンも、
大好きなこどものために多額の寄付をしているとか。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、
後半生を慈善事業すなわちそれまで稼ぎに稼いだ金を
社会のために使い切ることに賭けたが、
ゲイツやバフェットもその伝統にならったかに見える。
もちろん背景には、税金で取られて
訳の分からない使い方をされるよりは、
使い道を自分で決められる慈善事業を選んだ、
なんていう面もあるだろう。
あるいは富の頂点を極めた今、
欲望の対象が尊敬と賞賛を得ることに変わっただけなの
かもしれない。
しかし、それでも、巨万の富を築いた人なんだから、
金に強く執着してきたに違いなく、
だから彼らが金を惜しむ気持ちは、ぼくたちの百万倍も
強いのではないかと思うんだ。
それをぽんっと手放しちゃうんだから、
何にしたってすげーよ、まったく。
アメリカはたしかに苛烈な格差社会だが、
一方ではこんな風に、強者が弱者に慈善を施すということが
ある程度期待されている。
もしかしたら、今度の彼らの行為も、
規模のでかさは別として、
それほど特別なものだとは捉えられていないのかもしれない。
もともとキリスト教では得たお金の十分の一は
神さまのために使うことになっているから、
子どもですら、お小遣いの10パーセントを募金に使う、
なんてことが珍しくないと聞く。
年収一千万を軽く超える人たちが「われわれ庶民は…」と語り、
いつだってひがみ、もらう側に立ちたがるメンタリティとは
ずいぶん違うのだ。
そもそもわが国には、
富める者は社会に応分の還元をすべしという発想がない。
累進課税という形でそうしていると言えるかもしれないが、
そうしているのは国であってわれわれではないから、
お互いが支え合うという思想を育てることにはつながらない。
格差を互酬や再分配で補正するしくみがないという以前に、
第一、寄付を促進する税制すら何もない。
税金として払うか寄付をするかが選べないということは、
他人のため社会のために自分の意志で働きかける道が、
事実上閉ざされてしまっているということにほかならない。
たったこれだけの議論で軽々に結論するのはいけないが、
こういう背景を持たない日本が、
このまま言われるとおりの格差社会になっていくとしたら、
どうにも救いのない状態になるような気がするんだよなー。
開店祝いの花
近くに新しい店ができ、
開店祝いの花輪が店先にずらりと並んでいた。
ここ名古屋では、
こうした花輪の花は勝手に持っていってよい
という風習がはびこって、もとい残っている。
今日も近所のおばさんたちが群がって、
抱えきれないくらいの花を持ち去っていた。
どうやら食事をした帰りがけというわけでもなく、
わざわざそのために来たようである。
開店の景気付けだとか、縁起のものだとか言われているが、
おばさんたちの頭にあるのはもちろん
そんな共同体的配慮などではなく、
「タダならもらわなきゃソン」というぎらぎらした
一念だけである。
ぼくはこれを見るたびに、
名古屋に暮らしていることを恥じずにはいられない。
店の中に小学4年生くらいの男の子がいた。
おかあさんとの会話から察するに、
千葉で生まれて横浜で育ったようすである。
やがてこの子が花を持ち去るおばさん達に気がついた。
「おかあさん、おかあさん、どろぼうだよ」
「いや、名古屋ではね」と説明するおかあさん。
ところがこのボウズは納得しない。
店の外のおばさんに聞こえないことをいいことに
「どろぼうだ、どろぼうだ、どろぼうだ」と言い続けてやまない。
それがやがて憎々しげな「ドロボーう」という口調に変わる頃、
ぼくもだんだん腹が立ってきた。
おばさんにではない。このボウズにである。
自分の育った文化と違っているからと言って、
大の大人を泥棒呼ばわりするとは何ごとだ。
それを見ながら咎めないとは、親はいったいどういうつもりだ。
ここではあれが当たり前なのよ、
土地によっていろいろな習慣があるんだね、
と教えてやればいいではないか。
たしかにぼくもこの花の持ち去りは恥ずかしい蛮習だと
思っているが、しかしそれを排斥しようとは思わない。
いくら演歌が嫌いでも人前で演歌を貶めるようなことは
言わないのと同じである。
ひと言いってやろうかと思って振り返ったら、
さっき帰ったはずのおばさんが、ふたたびやってきて
両手いっぱいに花を抱えたところだった。
ああ。