月別アーカイブ: 2010年11月

単なるメモなんですが。

先週届いた「てにをは辞典」。
適当なページをめくると、
ばんちゃ[番茶]▲が 冷める。
▲を 入れる。すする。つぐ。煮出す。
ってな感じ。いわゆるコーパスなんだが、
これがなかなか面白い。
言われて見れば当たり前の言葉の使い方でも、
自分の言葉は、意外なくらい小さなところを
うろうろしていることを知る。
「孔雀の羽の目がみてる」蜂飼耳
こういう文章を読むと、あ、随筆というのは、
とうてい素人が手を出せる領域じゃないな、と思う。
書き方が平明なだけに、
この人の目の見え方が際立っていることが分かる。
大したことじゃないことがらを、
文章の巧みさだけでごまかすような随筆も、
実はきらいじゃないのだが、
こうやって、見えているのに見ていないものを
見せてくれるような文章は、なおいい。
さっき思いついたこと。
忘れないうちに書いておこう。
せいぜいシャッターを押しただけで、
自分がそれを作り出したような顔をするな。
花の写真が美しいのは、
花が美しいからに決まっているだろーが。
おわり。

ネットにつながらない考

何日か前にルーターが故障して、
パソコンがネットにつながらなくなった。
外部とつながらないパソコンなんて、
ちょうど車庫から出られないクルマのようで、
まるで役に立たないもののように思われるけど、
つい十年前には、パソコンってのは、
こういうものだったんだよなー。
ochiba.jpg
あの頃は、手書きではない活字のような字が、
自分の手から生み出されるということだけで
十分に刺激的で、
ペンとノートで考えるのとは
まるで違った文体ができあがったりするのが
とても楽しかった。
使い途と言えば、ただ文字を打つだけしかなかったが、
それでもパソコンは、
自分が何かを生み出すための道具として、
それなりに機能していたと思う。
今はどうだろう。
ネットを徘徊してぼんやり過ごすなんていうことで、
膨大な時間を失っている。
パソコンが、むしろ考えない道具になってしまっている。
ネットによって得られる情報や知識や刺激の量と、
ネットによって奪われている
読み書き考える機会とを比べてみれば、
とんでもなく出超になっているんじゃないか。
ohmi_ie.jpg
たしかにブログのようなものは
書くことの動機づけになっているとは思う。
しかしそこで書くのは、
よくも悪くも読まれるために書く文章だから、
純粋な日記に代わるものではない。
日記のように、外につながらない文章、
自分のためだけに書く文章がもたらす豊かさに、
もう少し目を向けるべきなのではないか。
ネットにつながらない何日かのうちに、
そんなことを、考えておりました。
(おまけ:日記的メモ↓)
積極的に、つながらない。
出し入れのスピードをうんと落とす?
郵便のように。
週に一度里に下りて買い出しをするように。
たとえば瞑想とか。自省とか。
散歩とか。
古典を読むとか。
少し奔流から身を引いて、
ひとつ内側の層の自分に語らせる。
今ではない時間に身をずらす。
情報処理は、考える代わりにはならない。