何日か前にルーターが故障して、
パソコンがネットにつながらなくなった。
外部とつながらないパソコンなんて、
ちょうど車庫から出られないクルマのようで、
まるで役に立たないもののように思われるけど、
つい十年前には、パソコンってのは、
こういうものだったんだよなー。
あの頃は、手書きではない活字のような字が、
自分の手から生み出されるということだけで
十分に刺激的で、
ペンとノートで考えるのとは
まるで違った文体ができあがったりするのが
とても楽しかった。
使い途と言えば、ただ文字を打つだけしかなかったが、
それでもパソコンは、
自分が何かを生み出すための道具として、
それなりに機能していたと思う。
今はどうだろう。
ネットを徘徊してぼんやり過ごすなんていうことで、
膨大な時間を失っている。
パソコンが、むしろ考えない道具になってしまっている。
ネットによって得られる情報や知識や刺激の量と、
ネットによって奪われている
読み書き考える機会とを比べてみれば、
とんでもなく出超になっているんじゃないか。
たしかにブログのようなものは
書くことの動機づけになっているとは思う。
しかしそこで書くのは、
よくも悪くも読まれるために書く文章だから、
純粋な日記に代わるものではない。
日記のように、外につながらない文章、
自分のためだけに書く文章がもたらす豊かさに、
もう少し目を向けるべきなのではないか。
ネットにつながらない何日かのうちに、
そんなことを、考えておりました。
(おまけ:日記的メモ↓)
積極的に、つながらない。
出し入れのスピードをうんと落とす?
郵便のように。
週に一度里に下りて買い出しをするように。
たとえば瞑想とか。自省とか。
散歩とか。
古典を読むとか。
少し奔流から身を引いて、
ひとつ内側の層の自分に語らせる。
今ではない時間に身をずらす。
情報処理は、考える代わりにはならない。