中学生の英語の教材に、
「このクラスで一番親切なのは誰ですか」
なんていう文を書かせるのがあった。
おもしろい。
電車でおばあちゃんに席をゆずった太郎君と、
雨の中で捨て猫を拾った次郎君と、
弁当を忘れた友だちに自分のを分けてやった三郎君を比べて、
だれの親切ポイントがいちばん高いかを比較考量すると、
まあ、そういうことになるんだろうか。
英語の勉強なんだから、そう目くじら立てなくても、
と言われそうだけれど、
こういうリアリティのない文を中学生に書かせるのは、
言葉を教える方法として、たいへんまずいと思う。
だってそれでは、
言葉なんてのはね、それっぽいことを書いときゃいいの、
意味なんかいいの、
って教えているのと同じなんだから。
これと関係があるのかないのか、
英文和訳をさせると、日本語としてまるっきり
意味をなさない訳文を書いて平気な子が多い。
たとえば、
face starvation 「飢餓に直面する」を
「顔の飢餓」と訳してしまう類いである。
もちろん分かっていないのだから、
おかしな解答を書くこと自体はいたしかたない。
しかし、誤答は誤答なりに、
意味の通った解答をしようという意思が見られないこと、
言い換えれば、
意味を持たない言葉を怪しまないということは、
ちーと問題なのではないか。
せめて、「飢えて苦しそうな顔をする」とか
「飢えた顏」とでも書けないものか。
これは英語力ではなく、言葉に対する姿勢の問題だ。
そもそも勉強っていうのは、
教科書やら先生のお話やらの言葉を介して
その言葉が指し示す意味を理解し、
蓄積していくことをいうのだから、
意味を持たない言葉に違和感を覚えるという感覚は、
とても大切なのだと思う。
聴く言葉には意味を求め、語る言葉には意味を込める。
こういう当たり前のことを、
ぼくたちは、もっともっと大切にすべきなんじゃなかろうか。
ま、もちろんね、
ロートレアモンの
「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」
なんていう文も
それなりにくらくらしてしまう魅力があるのだし、
ナンセンスな言葉は全部ダメ、なんてことが
言いたいわけじゃないんだけどさ。