食料品を買うとき、賞味期限をちゃんと確かめるのは、
買い物のイロハである。
同じお金を払うなら、新鮮な、賞味期限のできるだけ
長いものを選ぶ方がよいに決まっている。
わざわざ奥に並んでいるのをかき分けて選ぶ、
ってのも、ま、ありだろう。
ところで、ご承知のとおり、
ハンバーガーショップでもコンビニでも、
古くなった商品は、どんどん廃棄処分にする。
とんでもない量らしいね、これが。
小さな国なら一国分の食糧をまかなえるくらいとか。
よくないよね、こういうのは。
よその貧しい国からたっぷりと食糧を輸入して、
食べもしないで捨てるんだから。
その国には飢えている人もいるだろうに、ひどいよね。
さて。
ここでぼくが話題にしたいのは、じつは食品廃棄の問題ではない。
製造日の新しい食品を選ぶのは構わないし、
一方まだ食べられる商品をどんどん捨てることを
咎めるのも筋が通っている。
そのこと自体をとやかく言おうというのではない。
言いたいのはただ、
ひとりの人がその両方をやってしまうのはよくない、
ということである。
言うまでもないことだけれど、
賞味期限切れの食品が捨てられている背景には、というより、
むしろ直接の原因として、
いちばん新鮮な日付のものしか買ってもらえない、
という現実がある。
もうちょいとストレートに言うと、
お店から大量の残飯が出る原因の一端は、
後の列から牛乳を選ぶぼくやあなたにある。
にもかかわらず、食糧の大量廃棄には反対、というのは、
どう考えてもおかしいだろう。
言行不一致ってやつだ。
これは、日常的なだけに、なかなか大きな問題だ。
残飯をこんなに捨てちゃいけないよね、と考える以上、
いちばん古い牛乳を買うのか。
あるいは、残飯のことについては口をつぐみ、
いちばん新しい牛乳を買うのか。
それとも、
残飯の問題を語りながら、それこれとは話が別と割り切って、
自分は新しい牛乳を買うのか。
思想の価値とか有効性とか一貫性とか、
ことばとか、理性に対する信頼とか、
倫理とか、正しさとか、人としての矜恃とか。
じつにぼくたちは、スーパーの食パンの前で、
自分という存在のありのままの姿を問われているのだ。
さらに自分の些細な行ないが、
つもりつもって社会のありさまを決めている。
ってなことまで考えれば、
これはまた、社会に対する責任の問題でもある。
ひゃーっ。