今ぼくたちが現に生きているこの世界は、それを
どのように見るか、
どのように感じるか、
という姿勢によって、さまざまな様相を示す。
当たり前の話だが、この世界、とひとくちに言っても、
ミノムシにとっての「この世界」は、
暗くて狭くて風に揺れるものであり、
となりのおっちゃんにとっての「この世界」とは、
ネクタイを締めて地下鉄に乗って出かけるところである。
世界の立ち現れるありさまは一様ではなくて、
それを受け取るぼくたち自身のあり方によって決まるのだ。
その意味で、世界はぼくたち自身の姿を映す鏡だ。
こういう世界のあらわれ方を、世界観、という。
世界は自分の鏡だから、
世界観とは、人生観とほぼ同義と言ってもよい。
まあ、ふつうにいえばこんなことなのだが、
いつの間にやら、この言葉は、
まるっきり違った意味で使われるようになっている。
ご承知のとおり、
ゲームの舞台設定やその雰囲気、という使い方である。
ことばがどんどん形を変えたり、
ぜんぜん別の意味を持って使われるようになったりするのは、
ごく普通のことだ、
だからことばの使われ方が変わったくらいで驚くべきではない、
という考え方もある。
でも、ぼくはそうは思わない。
世界観という言葉がなくなることは、
世界の見え方は自分のあり方そのものである、という事実を
とらえる糸口のひとつを失うことだ。
そして、
自分にとっての世界、自分を取り巻く環境、自分の生きる場を
変えていくには、それを受け取る自分自身を変えるしかない、
という自己変革の契機もまた、失われることになるだろう。
言葉は、ただコミュニケーションのためだけにあるのではない。
言葉が自分に向けられたとき、
それは、わたくしという世界を作り上げる材料となる。
だからひとつの言葉が失われるたびに、
わたくしの中から、あるべき何かが欠け落ちてゆくのだ。
ひとつひとつは、ほんの小さなかけらに過ぎないだろう。
でも、その小さなかけらが消えるごとに、
ぼくたちはその分だけ、ぼくたちではなくなっている。
子どもたちの未来には、すでに世界観という言葉はない。
子どもたちは、ほかにどんな言葉を失ったのだろう。
言葉を失った心には、どういう世界が映るのだろう。