スマートフォンさえあれば

久しぶりに地下鉄に乗ってみたら、
スマートフォンを使っている人がほんとうに増えていた。
よく目につくのは、20代の若い人たちだ。
ぼくは携帯メールもろくに打てないおじさんだが、
けっこうあの手のガジェットは好きである。
かつてはPalmやClieなんていう機器で、
思いつきをメモしたり、スケジュールを書き込んだり、
電子書籍を読んだりしていたものだ。
だから今でも吊り革につかまりながら、
若者たちのiPhoneをこっそりのぞき見てしまう。
今どきの情報機器はどんな風なのか、やっぱり興味がある。
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で、ほどなく分かったのは、
地下鉄の中でiPhoneを操作している人は、たいていは、
ゲームをしているってことである。
サンプル数5人くらいの話だから統計的には意味はないが、
非常に強く印象に残った。
ま、いろいろな使い方のできる機器というのは、
えてしてそういうものである。
娯楽番組から教養番組まで幅広く放送するテレビで、
圧倒的に見られているのは娯楽番組の方だし、
家庭で使われるパソコンで収集される情報は、
見たはしから忘れてしまうようなものがほとんどである。
スマートフォンも例外ではない。
素晴らしく役に立つ情報機器に素晴らしい役が任されることは
きわめてまれで、たいていはろくでもない気晴らしに使われる。
そのためだけに使われると言ってもいいくらいだ。
そのこと自体は悪いことじゃない。
ぼくもパソコンは、ほとんどそういう気晴らしに使っている。
しかし、パソコンといいスマートフォンといい、
おそらく買おうと決めたときには、そうとう高尚かつ知的な
できるビジネスマン的な使い方を想定していた人が多いだろう。
知的な道具を手にしたら、
もう知的で知的で仕方がないような生活が待っている、
なんて、ついつい思ってしまいがちだもの。
これだけいろいろな道具を遍歴してきて、
何も変わらない自分を十分に知りながら、
いや次の道具こそは、おれを知的に変えてくれるに違いない、
と期待してしまうのは面白い。
これは今どきの、一種の信仰なのかもしれないね。