私を変えた一冊の本

私の人生を変えた一冊、みたいな言い方はまったく信用しないのだけれど、
たとえばそれが自分が想像もしていなかったような生き方を描いたもので、
それを読んだために気分が高揚したり、
自分の来し方を振り返って慚愧の念に身悶えをしたりというような、
そんな瞬間があるという意味なら分からないでもない。
しかしまったく自分とはかけ離れた人生から何か持続的な影響を受けるということは考えにくいし、
逆に自分と同じような行き方を示されても真似たところで同じようになってしまって変わりようがないのだし、
つまりは一冊の本で何かが変わるということがあるとすれば、
それはその本を読もうが読むまいが、
読み手の方ですでに何かが変わるタイミングにあったということに過ぎないだろう、
というようにこれまで思っていたのだけれど、
保坂和志の「カンバセイション・ピース」を読んでいたら、
もしかしたらそんなこともあるのかも知れない、という気がしてきた。
とにかくこの小説には、事件が起こらない。
小説ならではの意外な展開というのがまるでない。
ひたすら当たり前の平和な日常が繰り返されるだけである。
カンバセイション・ピース=風俗画というタイトルそのままの作品で、
何かを見て浮かんだ考えが次々に過去の記憶や連想を生んでいき、
さらにずるずると感想が引き延ばされていく、
というような文体が慣れてくると気持ちよく、
いつの間にかその語り口のままに世界を眺め始めていたりする。
半分も読んだらすっかり影響されてしまって、
何か仕事をしているときはよいのだけれど、
外を歩いているときや書類をコピーしてホッチキスで留めてというときなどには、
気がつくと彼の文体を真似るような口ぶりで頭の中で風景を写し取っている。
さらに目の前にあることだけでなく、
その風景から連想されることを次々とことばに変えて行くうちに、
そのことばから次の連想が生まれ、
その連想がまた予想もしていなかったものを生み出すような状態になって、
まるで明晰な夢を見ているような具合になってくるのだ。
面白いことに、さまざまなことばやイメージは、
自分の中からではなく、
自分がいるこの空間とぼくの体や脳が感応して生み出されているような感覚があって、
だからことばは途切れなく続いていてもちょっと意識の方がついて行けなくてふと我に返るようなこともあり、
そうして我に返る前の我を忘れているときもことばは絶え間なくあふれてきているのだから、
表現上のあやなどではなく、
自分の夢が自分のものでありながら自分のものではないのと同じく、
それらのことばは自分の中から湧いてくるとはとても言えないものだと思ったりする。
反対に、意識的にことばを探しているときはそのことばは自分のものかと言うとそれもそう単純ではなくて、
ことばを探しているうちに意識の探索の網が広がって、
それまで見えていない風景の細かい部分が見えてくるために、
今浮かびそうになっていたことばはどこかに押しやられ、
まったく思うつもりのなかったことを思う羽目になるのだから、
やはりここでも、ことばの自律性などはなはだ心許ないものなのだと思う。
こんなことを書いたのは「カンバセイション・ピース」を読んだからにほかならない。
つまりこの本は、ぼくの人生を少なくとも1日分は変えたわけだ。
これはなかなかすごいことだ。