ぼくは、ここでは自分をぼくと書き、
仕事をするときは、私といい、
家族や親しい友人の前では、おれと呼ぶ。
自分のことをお父さんとは言わないが、
おじちゃんはね、という語り口は結構好きだ。
女性だって、私とあたしとお母さんの
使い分けくらいはしているだろう。
わたしと称するとき、ぼくの人格はわたしに切り替わる。
おれと称するとき、おじちゃんと称するとき、
ぼくの人格は
その呼称にふさわしいものに切り替わっている。
ぼくがここでぼくと称しているのは、
私と呼ぶほど円熟しておらず、
いまだに物事がよく分かっていない自分として書いている
からだろう。
はっきり自覚しているわけではないが、
きっとそんなところだ。
もしぼくが私としてこれを書いているのなら、
表現の仕方だけでなく、選ぶテーマも内容も、
もしかしたら感想や結論さえも、
まったく違ったものになっているかもしれない。
自分をどう称するかによって、
世界に向かう立ち位置がすっかり違ったものになるからだ。
王が自らを朕と呼ばず、ぼくちゃんとでも称していたら、
世界の歴史は大いに変わったろう。
恐怖をもって民衆をひれ伏させるような権力は
生まれなかったかもしれないし、
もしかしたら幼児的な底なしの破壊が行われてしまった
かも知れない。
いずれにせよ、超越的な自称なしに
超越的な自分を演じきることは難しかったに違いない。
ぼくは子どもが自分のことをおれと呼ぶのが好きではない。
子どもはまずぼくとして自分を形成し、
しかる後におれになるべきで、
たとえ気の置けない仲間の中でおれであっても、
年長者の前では、
やはりぼくであり私であるべきだと思っている。
なぜなら、おれは闊達であり、自由であり、奔放であり、
ときには自分を真摯に見つめる自称だけれども、
自分を支えるものと、
自分を超越するものに対する配慮や畏れを
決定的に欠くものだからだ。
おれから生まれるのは、おれにとどまるおれにすぎない。
ぼくからうまれるぼく、
私から生まれる私、
わたくしから生まれるわたくしに、
出会わないのはもったいない、と思う。