本物とニセモノ

徳島の大塚国際美術館へ行ってきた。大塚製薬グループが運営している美術館である。展示品はすべて複製であるにも関わらず、入館料は3,300円と日本で一番高い。
これだけ聞くと、芸術をあこぎな商売に利用したとんでもない施設と思われかねないが、まあ結論から言いますと、もうびっくりの素晴らしさだった。ほぼ開館から閉館まで粘ったが、とても全部は見られない。質・量・規模とも想像を絶する美術館であった。システィナ礼拝堂の空間をそのまま再現しようだなんて、まったく常軌を逸している。

この美術館では、すべての作品に近づき、写真を撮るだけでなく、なんと触ることさえできる。
こうして体験する絵画は、ある意味ではオリジナルよりも深い出会いをもたらす可能性がある。たとえばスーラの巨大な点描画をその点のひとつひとつまで指でなぞりながら見ていると、描くことを追体験しているような気さえしてしまう。

多くの場合名画の鑑賞というのは、遠目から数秒見るだけのことが多く、ややもすると、現物を見たことがある、というスタンプラリー的な経験に留まってしまうのに対し、ここでのへばりつき睨め回し指で触れる体験の濃度は、まったく桁外れのものだった。
たしかにハリウッドスターを生で見られたら、それが1秒だけでもさぞ心踊る体験だろうが、それはそれとして、スクリーン上のお姿を心ゆくまで眺めるのもまた格別である。映画で見る姿はニセモノだから価値がない、なんて言う人はよもやいまい。絵画もまったく同じだということを、ここで初めて実感した。

コピーとオリジナルのどちらがいいか。
この自明と思える問いが、おかげでにわかに分からなくなってしまった。

オリジナルは、いうまでもなく一回きりの出来事としての「歴史的価値」を持つ。この価値は、複製品には、それがいかに精巧なものであっても、まったくないものである。
ところがこれが「芸術的な価値」となると、事情はまったく異なる。絵画が視覚芸術である以上、見た目がまったく変わらなければ、当然その芸術的価値も同じと考えるほかはない。それどころか、長い年月の間に退色したり剥離したり改変されてしまったりしてもとの姿が損なわれてしまった作品を、制作当時の姿に近い形に修復した展示物は、現存する原画よりも、芸術作品として優れていることすらありうるだろう。
こうなると、コピーとオリジナルの優劣は簡単には決まらなくなる。

映画で言えば、経年劣化したオリジナルフィルムとデジタルリマスター版のどちらがより本物か、というようなものだ。あるいは薬師寺の創建当初から残る東塔と昭和になって再建された西塔との、どちらが本物か、という問いにも通じる。歴史的な価値としては古い東塔が高いのは言うまでもないが、じつは当時の華やかな姿を正しく伝えてくれるのは真新しい西塔の方なのだ。

この理屈で言うところのオリジナルと同等あるいはそれ以上の芸術的価値を持つ古今の作品が、広い館内に千点も並んでいる。それはまるで西洋美術2500年の歴史をたどる時間体験のようだった。長大な叙事詩か大河小説でも読んだような、あるいは何時間にもわたる超大作映画を観たようでもあった。一日を過ごしてぼうっと疲れてしまったのは、ただ長い時間歩き続けたためではない。きっとほんとうに、遠くまで行ってしまっていたのだろう。

本物を心ゆくまで鑑賞することが理想だとしても、あれほどの泰西名画を一度に見られる美術館など、世界のどこにもない。実現可能な芸術体験として、大塚国際美術館は最高の場の一つであることは間違いない。

そうそう、館内の食事も期待以上。ハーブチキンの何とかグリルみたいなやつがうまかった。