街に出る人たち

新型コロナウイルスが猛威を振るっている。学校が休みになってから、もうひと月半以上たった。未曾有の事態である。 Stay home(家にいよう)はすでに世界中で通用する合言葉になった。

ところが報道によると、主だった観光地からは人が消えたものの、観光地とも言えないような手近な公園や商店街がたいそう賑わっているという。鎌倉あたりの海沿いでは車が長々と渋滞しているそうである。

テレビをつけると、街頭インタビューが流れている。自粛の要請が出ていますが、という問いかけに対しても、若いお兄ちゃんたちは「大丈夫だと思う」「いいんだよ、別に」などと動じる風もない。

このような有様からはっきり分かることは、日本はほんとうに平和な国だ(った)ということである。彼らだけでなく自分を省みても、これまで死というものをまったく意識しないで暮らしてきたのだなとあらためて思う。

以前から、自転車に乗るみなさんの様子がとても気になっていた。彼らは止まれの標識のある四つ角に差し掛かっても減速すらしない。後ろも見ないで道路の反対側に車線変更する。クルマは決して来ないと決めている。傘を差して車道の右側を走るという猛者も珍しくない。「おれはどんなことがあっても決してクルマに轢かれない」「おれは不死身に決まっている」「誰もがおれをよけて行く」とばかりに、あるはずのない特権やら強運やらを一点の疑いもなく信じている。

一時大きな話題になった高速道路のあおり運転などもそうである。自分が猛スピードで煽っている前の車が、何かの事情でぎゅっとブレーキを踏んだらおれは死ぬ、などとは少しも思っていない。車と車のわずかな隙間をろくにスピードも落とさないですり抜けてくるオートバイも、となりの車がひょいと車線変更をしたらおれは死ぬとは思っていない。想定していない、ゆえにあり得ない、という理屈は論理でもなんでもないが、当人には自明の真理のようである。

いま彼らは(そういう彼らとこういう彼らは高い確率で重なっている)、新型ウイルスの危険を過小評価しているのではない。ただ、自分が死ぬという可能性を少しも感じていないのである(誰かは死ぬだろう、しかしそれはおれではない)。後ろも見ないで車道を斜めに横切っていく自転車や、ほんの1メートルまで車間を詰めて追越車線を走る車を思い出すとよく分かる。今すぐそこにある死の可能性すら感じ取れない彼らが、目に見えもしないウイルスを想像し、さらにそれを自分の死や自分が誰かにもたらしてしまう死と結びつけリアルに思い描くことなどできるはずがない。

思い出そう。自分の死というものは、今はいちばん現実味がないことでありながら、いつかかならず実現する現実なのだ。それがいま来ても何の不思議もない。だから今は、びくびくと、怯えて暮らそう。