耳を傾ける

専門家の言うことを鵜呑みにしてはいけない。それでは戦時中に政府を盲信してしまったのと同じ愚をおかすことになる、という意見を目にした。
その通りだと思う。権威ある人が言っていることを権威があるというだけの理由で信じてしまうことは非常に危険だ。ことに多くの専門家が政治的なプロパガンダに動員されてしまっていたり、自身の専門を踏み越えた領域でも軽々に発言してしまったりする昨今の状況を思えば、「専門家」でありさえすれば信頼できる、というナイーブな考えは持つべきではない。

つい先日も、新型コロナ対策専門家会議を代表する人のひとりがテレビに出ていて、見るとずり落ちるマスクをしきりにつまんで直していた。今どきマスクの表面に触ってはいけないことくらい、その辺の小学生だって知っているのに、それを何度も触っちゃうんだから、ああこの人はきっと何かのすごい専門家で、医者として目の前の患者を救ったり、研究室で感染症の研究をしたりすることについては素晴らしい業績を残してきた人なのだろうけど、テレビでマスクを触ってしまうことの影響力をつい忘れてしまうとは、どうやらウイルスの蔓延を食い止める施策自体を専門としているわけではないのだな、と感じてしまった。あるいは別のこれまたテレビでよく見る専門家は、「発熱後4日は様子を見るという方針の真意は、4日経って熱が続くようなら診察を受けてほしいということだった」などという信じがたい発言をした。様子を見ているうちに手遅れによって亡くなる人が何人も出たことにうろたえて、何とか責任を回避したい姿勢があからさまに見て取れた。

このように、専門家であっても、ほんの少し専門を外れたり政治的な思惑に絡め取られたり事実の追究よりも保身を選んだりすれば、そのとたん、素人同然の頼りなさを露呈する。間違えることもあれば不誠実なこともあるし知らないことも分からないこともある。こういう人たちを無条件に信頼することには抵抗はあるし、すべきではないと感じることも多い。

しかし、だからといって、専門家のほんとうの専門分野での知見を軽んじてよいわけではない。その能力に限界があるのは当然だが、それでも彼らはわれわれ素人にくらべて格段にものを知っている。頭もいい。経験もトレーニングも積んでいる。だから、彼らが正しい方向を指し示してくれる可能性は、声がでかいだけの人たちや能力に不釣り合いな権力を持っている人たちに比べれば、ずっと高いはずである。右も左も分からない未曾有の事態のただなかにあっては、完全ではなくとも比較をすれば多少はマシなこの人たちの言うことを信頼する以外に、何があるだろうか。

このことをいちばん知っていなければならないのは、社会全体に、ということは現実に、今だけでなく将来にわたって、甚大な影響を及ぼす力のある人たちである。それはもちろん行政と立法府を動かす人たちのことだ。

例の、不潔なマスクを二枚配るという歴史的な大愚策も、こうした視点から見直すと、ただの笑いごとでは済まされない大きな問題の現れであることがよく分かる。現政権の恐ろしいところは、このような珍妙な施策を打ち出してくること自体にあるのではなくて、あれこれの分野で専門家の知見を集める必要を感じておらず、自分たちの思いつきで十分正しい判断ができていると思い込んでいるところにある。

かつて首相は自分のことを森羅万象を担当していると言い放ったが、あれは言い間違いでも冗談でもなくて、彼の本心とみて違いあるまい。専門家の力を借りるまでもない、俺たちは何でも分かって何でもできるとほんとうに思っている節がある。こういう傲慢はただの無能よりもずっとタチが悪い。

2015年、集団的自衛権をめぐる安保関連法案について200名以上の憲法学者が違憲であると強く指摘したことは記憶に新しい。与党はそれに対して反論するのではなく、ただ多数決によって法案を成立させた。これは専門家軽視の表れである。最近では農林省の「Go to travelキャンペーン」というのもあるが、Go to travel という表現が正しい英語ではないことなど、ちょっと英語が得意な人(なんなら中学生)にきけばすぐ分かることである。それすらしないで(あるいは違っててもいいじゃん?というノリで)発表してしまう。こんな例はいくらでもある。新コロナウイルスの爆発的流行(アウトブレイク)をオーバーシュートと呼んでいるのは日本だけだ。医療用のガウンの代わりに雨ガッパを集めるなんて施策もあったが、これもまた専門家の意見を聞いたとは思えない。防疫や医療以外でも、たとえば大学入試改革(と言える代物か?)でも現場の教師の声がまったく反映されておらず、部外者の素人臭さがにじみ出ている。

もうまったくどこをとっても専門家の知見や現場の意見がこれほどまでに軽視されているのが腹立たしくてたまらない。反知性主義なんていう言葉を使うまでもない。ただ喧嘩の強いガキ大将が、勉強なんてくだらねえよ、と大きな声をあげて、成績の良い真面目な生徒を突き飛ばすのと同じである。困っているのか、じゃあ俺が歌でも聞かせてやろう、とでも言いだしかねない。ああ腹が立つ。

学問に敬意を持たないということは、つまり人類の長い歴史を無視しているということだ。不遜にも、おれ以外には大した価値がないと考えているということだ。そういう姿勢がそのまま弱者や少数者への蔑視や差別に結びついていると思うと、もうじっと座っていられないような気持ちになる。ああ腹が立つ、腹が立つ。

素人は発言するなというのではない。素人の発言を許すのは民主主義の根幹だ。ただ権力を持つ人たちに、専門知を集める謙虚さを持って欲しいと願うだけだ。これはそんなに大それた望みだろうか。