かつて東大総長の大河内一男は、卒業式で、J.S.ミルの言葉をもとに「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」と訓示した。いい言葉だ。この言葉はもちろん、生まれながらのソクラテスにではなく、油断していると太った豚になってしまう人たちに向けられている。ほかでもない、わたしやあなたのための言葉だ。
太った豚は決して堕落した豚ではない。むしろ豚として目指すべき理想の姿である。まるまる太っておいしそうな豚は、しかし誰にとっての理想なのか?
どうやらこの言葉は、ただ怠惰を戒めているのではなく、見当違いな努力に警告をしているのではないか。
安定した仕事に恵まれた大人や生きるために働く必要のない学生の多くは、それぞれ仕事のことと学校のこと以外は、ほとんど何も考えずに過ごしている。与えられたごはんを食べて、少しのスペースに満足している。認めたくないことだけれど、これは紛れもなく「太った豚」の姿だ。勤勉に働きよく勉強していたとしても同じことだ。それはせいぜい寝てばかりいる豚と、よく運動する豚との違いに過ぎない。
豚とソクラテスとの違いは、与えられたエサ以外のことを考えられないか、自分で一から考えようとするかの違いに尽きる。エサというのが不快ならば、「生き方」「すべきこと」「生きがい」「目標」なんて言い換えてもいい。私たちはちゃんと考えているつもりでいるけど、それは多くの場合「人よりたくさんエサをもらうにはどうするのが有利か」という程度のことでしかない。私たちにはもっと根本から考える、あるいは考えようとする姿勢が必要なんじゃないか。
運転するためにはクルマがいる。クルマを動かすためには運転技術がいる。ガソリンがいる。同じように、考えるためには考える対象がいる。訓練もいる。自分を駆り立てる気持ちもいる。
豚とソクラテスとの違いをもう少し考えよう。豚は目の前に現実にあるエサしか見えていない。昨日のエサや明日のエサは豚にとってはまったく無だ。現在の豚にとっては、それらに意味がないというよりも、そもそもそんなものは存在していなかったし、あとにも存在しない。昨日も明日もない。豚にとって、あるのは今だけだ。
ソクラテスはそうではない。昨日のメシはもちろん千年前にもメシがあったことを知っている。ということは、ある出来事が起こったのは千年前でも、きのうのメシが今の自分の現実の中に想起できるように、そして今想起できる昨日のことはすでに現在の自分と切り離せないこととして存在するように、千年前のこともまた、それと同じかたちでいま存在する、ということだ。歴史というのは、そうやって自分自身の一部をなすものだ。
自分とは別のところに、自分とは関係なく存在しているように見えて、実はそれを学べば自分自身の一部になるものは、もちろん歴史だけではない。
古い江戸のことを知れば江戸の暮らしの断片がわたしの記憶の一部になるように、現在のベルリンのことを知れば、ベルリンがわたしの世界の一部になる。「魔の山」を読めばスイスの山の療養所がわたしの世界に現れてくる。さっきまでわたしの世界に存在しなかったものやことが、こうして現れ、根を下ろす。音楽も絵も外国語も数学も、みんなそうだ。それらに触れるまでは、それらはわたしの/あなたの世界には存在しない。知ればあなたの世界の一部をなし、あなたの世界がちょっと広がる。そういうものである。
わたしの/あなたの世界が豊かに満たされ、わたしの/あなたの景色が広がってくると、その広さ豊かさに応じた考えができるようになってくる。ソクラテスはきっと、その先にいるのだと思う。