病院の前のバス停のベンチに、
枯れたようなじいちゃんが座っていた。
背筋を伸ばして、それはそれはうまそうにタバコを吸う。
ちょっと上向き加減にふーっと煙を吐き出すのが、
じつに伸びやかで気持ちがいい。
バス停は禁煙だそうだが、
じいちゃんのあの美しいほどの吸いぶりをみてしまうと、
ちょっと考えさせられる。
迷惑だからあそこも禁煙ここも禁煙と騒ぎ立てるのが、
はたしてそれほど正しいことなのだろうか。
がりっとな。
お昼を食べていたら、前歯が欠けた。
よーく見ないと分からない程度なのだけれど、
気になってしかたがない。
thの発音をしたら舌が切れそうである。
何だか落ち着かないので
手元にあった平ヤスリをきれいに洗って、
鏡を見ながらこりこりこりこり削ってみた。
おっけー。いい感じ。
やればできるじゃないか。
だから馬の話じゃなくてさ。
近ごろの子どもは、人の話も聞けないし、
筋道を立てて話すこともできないし、
文章を読んでもトンチンカンな取り方をする、
なんて嘆きをよく耳にする。
たしかにそうだと思う。
4コマまんがなどを読ませても、
まったく話の流れを読み取れない子どもはたくさんいるし、
授業の要点を自分からまとめられる子などはきわめて稀である。
しかしその程度のことなら、大騒ぎするほどでもない。
なぜなら彼らはまだ子どもであり、
ちゃんと教えてやればそこそこの理解はできるようになるからだ。
ふだんの暮らしの中でもっと始末に悪いのは、
「人の話も聞けないし、筋道を立てて話すこともできないし、
文章を読んでもトンチンカンな取り方をする」大人であり、
話の流れをつかむことができないために、
とんでもないコメントを口走り、
とうとう議論が成り立たない人たちである。
こういう人は思いのほか多い。
もしかすると、こういう人の方が多いかもしれない。
たとえば、子どもに意欲を持たせるにはどうするか、
という話をするのに
「馬を水場に連れて行くことはできても、
水を飲ませることはできない」
というおなじみの比喩を持ち出したとしよう。
するとそういう人たちは、馬の話を受けて、
「そうそう馬って自分の思ったことしかしないのよね」
「でも目がかわいいよね」
「わたしはシッポが好き」
なんておしゃべりを始め、怪しむところがない。
こういう現実をそのままに、
子どもに英語を教え、もって国民のコミュニケーション能力の
向上を図ろう、なんて言うんだから、
文科省もなかなか冗談がキツい。
雨の朝
朝8時半、パチンコ屋の前には早くも十人くらいの行列ができている。まだこの時間には起きていない人も多いだろうに、雨の中で開店を待つのはなかなか大変だ。ズボンを腰まで下げ、ビニール傘をくるくる回しながら斜めに立つ若者も、それはそれなりに勤勉なのだな、と思った。
地べたでもの食う人々
通りに面したマンションの入り口の階段に、どっかり座り込んでハンバーガーを食べている三人組がいた。走り抜けるクルマの音にも負けないような大きな声だ。
別段珍しい光景でもないのだけれど、その三人、どうみても幼稚園くらいの子どもがいそうな人たちなんだよなー。
別にママが座り込んでマックを食べちゃいけないってわけじゃないんだけど、やはりみっともない。若者の振る舞いは若者に譲って、大人は大人らしく成熟していく方がよほどかっこいいものだと思った。
国を愛せと言われましても
一昔前には祝日は「はたび」と言われ、
あたりまえに国旗を掲げたものだったが、
近ごろではそんな光景はごく珍しくなってしまった。
そういう現状を踏まえてか、
いま国会では、教育基本法の改正が進められている。
なんでも改正の目玉は「愛国心」を教えることであるらしい。
ふーん。
賛否はいろいろあるようだが、ぼくとしては、まあどっちでもいい。
教育の憲法、と言われる重要な法律だということは知っているが、
何ごとかを愛するように教育する、ということ自体、
そもそも無駄なことだと思うからだ。
教室で教えられたことが、
そのまま生徒の心に染みいるなんてことはあり得ない。
国を愛しているわけでもない教師が語る言葉であればなおさらである。
そもそも愛というのは自分の意志とは関係なく発動しちゃうものであり、
止められたって愛するか、脅されたって愛せないか、
どちらかに決まっている。
こういうことは、権力による強制に馴染むものではない。
もし本気で国を愛する心を育てたいと思うのなら、
教育という枠を踏み越えて、洗脳するしかないだろう。
終戦までの為政者が、事実そうしてきたように。
ま、仮に洗脳だとしても、自分の国が嫌いになるように仕向けてきた
ここ何十年かの「教育」よりは、まだマシなのかもしれないし、
無秩序な自由よりも秩序を保った不自由の方が
もしかしたら幸せなのかもしれないから、
試みとしては必ずしも無意味だとは思わないけどね。
とりあえずに自衛策として、
教育は、国家が国民を統制するための行為でもあるという事実を、
もう一度思い出しておこう。
実を言うと
きのう書いた文章は、一種の冗談である。
難しげなことをだらだらとしゃべるように書いたらどんな感じになるかなあ、と思ってやってみただけなので、真面目に読んで、わけが分からん、と言われても困る。
とは言うものの、文体つまりどう書くかということは、おそらく何を書くかというよりも重要なテーマだから、いろいろ遊んでみる甲斐はあると思う。
言いたいことに合わせて文体ができるというよりも、文体に合わせて言いたいことが出てくる、という方がおそらく現実に近いのだ。このことは、右翼の人たちの文体をイメージしても、あるいは反対に、ぐにゃぐにゃした若者たちのそれをイメージしても分かりやすいだろう。
私を変えた一冊の本
私の人生を変えた一冊、みたいな言い方はまったく信用しないのだけれど、
たとえばそれが自分が想像もしていなかったような生き方を描いたもので、
それを読んだために気分が高揚したり、
自分の来し方を振り返って慚愧の念に身悶えをしたりというような、
そんな瞬間があるという意味なら分からないでもない。
しかしまったく自分とはかけ離れた人生から何か持続的な影響を受けるということは考えにくいし、
逆に自分と同じような行き方を示されても真似たところで同じようになってしまって変わりようがないのだし、
つまりは一冊の本で何かが変わるということがあるとすれば、
それはその本を読もうが読むまいが、
読み手の方ですでに何かが変わるタイミングにあったということに過ぎないだろう、
というようにこれまで思っていたのだけれど、
保坂和志の「カンバセイション・ピース」を読んでいたら、
もしかしたらそんなこともあるのかも知れない、という気がしてきた。
とにかくこの小説には、事件が起こらない。
小説ならではの意外な展開というのがまるでない。
ひたすら当たり前の平和な日常が繰り返されるだけである。
カンバセイション・ピース=風俗画というタイトルそのままの作品で、
何かを見て浮かんだ考えが次々に過去の記憶や連想を生んでいき、
さらにずるずると感想が引き延ばされていく、
というような文体が慣れてくると気持ちよく、
いつの間にかその語り口のままに世界を眺め始めていたりする。
半分も読んだらすっかり影響されてしまって、
何か仕事をしているときはよいのだけれど、
外を歩いているときや書類をコピーしてホッチキスで留めてというときなどには、
気がつくと彼の文体を真似るような口ぶりで頭の中で風景を写し取っている。
さらに目の前にあることだけでなく、
その風景から連想されることを次々とことばに変えて行くうちに、
そのことばから次の連想が生まれ、
その連想がまた予想もしていなかったものを生み出すような状態になって、
まるで明晰な夢を見ているような具合になってくるのだ。
面白いことに、さまざまなことばやイメージは、
自分の中からではなく、
自分がいるこの空間とぼくの体や脳が感応して生み出されているような感覚があって、
だからことばは途切れなく続いていてもちょっと意識の方がついて行けなくてふと我に返るようなこともあり、
そうして我に返る前の我を忘れているときもことばは絶え間なくあふれてきているのだから、
表現上のあやなどではなく、
自分の夢が自分のものでありながら自分のものではないのと同じく、
それらのことばは自分の中から湧いてくるとはとても言えないものだと思ったりする。
反対に、意識的にことばを探しているときはそのことばは自分のものかと言うとそれもそう単純ではなくて、
ことばを探しているうちに意識の探索の網が広がって、
それまで見えていない風景の細かい部分が見えてくるために、
今浮かびそうになっていたことばはどこかに押しやられ、
まったく思うつもりのなかったことを思う羽目になるのだから、
やはりここでも、ことばの自律性などはなはだ心許ないものなのだと思う。
こんなことを書いたのは「カンバセイション・ピース」を読んだからにほかならない。
つまりこの本は、ぼくの人生を少なくとも1日分は変えたわけだ。
これはなかなかすごいことだ。
ことしの桜
4月のはじめごろに法隆寺で満開の桜を見て、5月の連休に立山でまた桜を見た。ひと月も桜を楽しめるなんて、なかなか日本も広い。