新型コロナウイルスは、どんな人間にも分け隔てなく襲いかかる。しかし皮肉を込めていえば「上級国民」ほど優先的に検査を受けられ手厚い治療を受けることができ、その他の民草は繰り返し懇願しても検査すら受けられず、場合によってはあたら命を落としてしまうというのが、わが国の悲しい現実である。
こうした差別は何も医療に限ったことではない。「上級国民」は、その上級の程度にもよるだろうが、たとえば人のお金で毎晩のように豪華な会食を楽しむことができ、あるいは相当のことをやらかしても検察の捜査や起訴を逃れることができる(らしい)。彼らの力にあやかろうとするそれなりに上級の人たちは、彼らに群がりひれ伏しすがりつく。そしてまたその下の階層の人たちは自分よりちょっと上の人たちに群がりすがりつき……という構造が連鎖して広がっている(らしい)。
現代の階級というのは、かつてのように貴族や武士などというはっきりした形をとらないから、どこからが上級でどこまでが中級かなどという詮索には意味がない。しかし階層の切れ目がはっきりしないとはいっても、この社会がところどころに飛び越えられない大きな断層をもつ社会であることは明らかだろう。日本社会は現実をみれば、とうてい平等とはいえない社会なのだ。
こういう社会だから、子どもに努力をすすめ、少しでもよいポジションを目指すように教えるのはもちろん間違ってはいない。這いのぼるチャンスが与えられているのだから、それを活かして精進するのはもちろん正しいことである。スポーツでいえば、ひとつでもたくさん勝って大きい大会に進もうとするのと同じだから、正しいだけでなく美しいと言ってもいいくらいだ。
しかし、そんなふうに考えるだけ、でいいだろうか。子どもを教えるときに、「努力をしましょう、そうしたら自分の望む仕事に就けますよ、充実した楽しい人生が送れますよ」と励ますだけでいいのだろうか。
そうではないだろう。われわれは、社会の波に翻弄されて生きるものではあるけれど、同時にまた、社会を作り上げ動かす力をも与えられている。だったら不公平な社会の中で少しでも優位を確保しようとするだけでなく、不公平さそのものを正そうとする気持ちもまた、われわれは、そしてわれわれの子どもたちは、持っていなければならないのではないか。
勝つことはいいことだ。しかし、公正で公平なこともいいことだ。スーパープレイは素晴らしい。しかしフェアプレイも素晴らしい。こういうあたりまえの良識を育てることも、教育の大事な役割である。残念ながら今の教育は、自分のために力をつけるということに傾きすぎていて、社会正義に目を向けることがあまりに少ない。
社会に生きる者の責任というのは、人に迷惑をかけないで生きるということに尽きるのではない。一所懸命働いてよい製品やサービスを届けることだけでもない。きちんと税金を払うことだけでもない。
そういう消極的な義務を果たすだけじゃなく、誰も踏みつけにされず、搾取されず、晴れ晴れとした気持ちで過ごせるような社会を実現するために、正義と自由と公正によって運営される社会に近づくために、自分の力をちょっと使う。そんなささやかな公共心を持つこともまた、社会に生きるわれわれの責任なんじゃないかと思う。