先週iPod touchを手に入れてから、
サルがヒトへと進化するように、毎日着実に上達している。
ここでサルはヒトに進化などしない、という事実に気づいた人には、
ぜひここに込められた言外の意味も汲んでほしいんだが、
それはともかく、おじちゃんはおじちゃんなりに
ちょっとずつは上手になっていて、これがなかなか楽しいのだ。
iPod touchには、ケータイ機能がついていない。
もちろん携帯すること自体はできるし、
肉声が届く範囲なら遠くにいる人とでも話をすることはできるが、
しかし、これをケータイ機能と呼ぶのは、やや憚られる。
ケータイ機能もカメラも付いていないデバイスを、
何のために手に入れたのか。
「読んだり書いたり勉強したりするのに必要なのっ」
と言い張ってはいるが、
じつは、何となく欲しかったからに決まっている。
もちろんこのあたりの事情は、バレバレである。
手始めに、青空文庫でごっそり本をダウンロードした。
青空文庫で読めるのは著作権の切れた古い本ばかりだが、
ぼくはもともとそういう本しか読まないので、
まったく不満はない。
これがうまく行ったので、
次は海外版青空文庫とでもいうべきProject Gutenbergから
ディケンズとかマークトウェインとかジャックロンドンとか、
イソップとかちび黒サンボとか(だんだん易しくなっているけど)、
いろいろダウンロードして、
それをアマゾンのKindle for iPhoneというソフトで読んでいる。
というか、眺めている。
たのしい、たのしい。
タダも同然の値段でこんなことができるなんて、
いやあ、いい時代になりました。
何の落ちも展開もない話ですが、そんだけです。
ばいばい。
投稿者「komodakenzo」のアーカイブ
のどがかわいた
小学生に国語を教えていました。
ちょっと内気な子です。
学校ではどこまでやったの?
ってやさしく聞いてやったら、
まあ、この子ったら、
目を伏せたまま、
「…のどがかわいた」
とか言いやんの。
人の質問を無視して、のどがかわいた、だと?
一瞬むっとしたけど、気を取り直して
どこまでやったの?
ってもう1度聞いてやったら、また
「のどがかわいた」
って言うから、もう、腹が立ちましてね。
怒鳴りつけてやろうと思ったんだけどさ。
そのとき、わたしは気づいたのです。
ああ、なんてことでしょう。
そういや教科書に、
「のどがかわいた」
っていうお話が載っていたのでした。
まじで、あぶねかったです。
iPod touchの入力練習 その2
だんだん打つのが速くなってきました。
あと3倍も速くなれば、十分実用になりそうです。
ますます練習あるのみです。
今日はこんな文章を書きました。
内容のくだらなさを指摘されても困ります。
★
苦しくったって、悲しくったって、
コートの中では平気なのっていう人は、
結局のところ、
コートの中では苦しくも悲しくもなく、
へいっちゃらってことなのでしょうか。
苦しくも悲しくもないのに、なみだが出ちゃうってことで、
いいんでしょうか。
深いです。
矛盾しているのに矛盾を感じさせず、なぜか納得してしまいます。
コミュニケーションというのは、じつは、
こんなかたちで成り立っていることが多いのかもしれません。
分かるはずのないことを、分かったことにしたり、
分かったつもりになったりして済ませている。
つまり、ただの誤解を理解と見なしているに過ぎないのですが、
それでも同じ機能を果たすなら、正しい理解であろうが、
誤解であろうが、そんな違いはどうでもいい、ということでしょう。
そもそも理解したり、共感したりするのに、理屈は不要です。
理屈の機能は、おもに相手をやり込めることにあって、
ことばを介さない自然な共感には、到底およぶものではないのです。
そう分かっているのに理屈を言いたがるのは、なぜなんでしょうね。
iPod touchを買った。
第二世代を5千円で。
次の文章は、iPodの入力練習で書きました。
楽しいわ、これ。
たぶんもう三ヶ月くらい、シャンプーをしていない。
スキンヘッドにしたからではない。
スキンヘッドにしたけどそれが理由ではない、ということではない。
いや、だからスキンヘッドにしたのが理由じゃないって
さっきから言っているじゃないですか。
べつに、ワイルドに男くさくなろうとしているわけではない。
ワイルドな男が臭くなってしまったわけでもない。
清潔そのものです。
ともかく、シャンプーをやめてみたのだ。
そのかわり毎日、ときには朝晩、お湯で念入りに洗う。
頭がすっとするまで、歯磨きなみの時間をかけてごしごしするのだ。
そうしたらな。すごいんだぜ、
抜け毛がほとんどなくなったんだ。
ノーノー、抜け毛でなくなったんじゃない。
ほんとうさ。
抜ける毛がないからだろうって? ああそうさ。
いや、ばか、違うよ。抜ける毛がないっていうのは、
そういうことじゃなくってさ、
抜けるだけの毛がないっていうんじゃないよ。
抜ける毛くらいちゃんとあるさ、もちろん。
あれ?
こそこそ
えっと。
久しぶりすぎて、やり方をすっかり忘れてしまいました。
ちょっと写真をアップしてみますね。
ほりゃ。
さっき、ログインしようとしたら、
性別だの生年月日だの、聞かれたこともないことを聞かれました。
一年以上放置していたから、不審者扱いされたのかしらん。
ママ、ぼくだよ、ムーミンだよ、の気分でした。
おしまい。
そんな言葉は知らんぞ
リビア関連のニュースをチェックしていたら、
首都防衛のために雇い兵を募集しているとか、
雇い兵が市民を殺りくしているとかいう記事が目に留まった。
何、この「雇い兵」って。
日常的に使う言葉じゃないから、別に実害があるわけではないけど、
こんなに気持ちの悪い言葉は久しぶりに見た気がする。
「雇い兵」
うわっ、ぞわぞわする。気色わりっ。
傭兵、なんて言葉がとりわけ美しいわけでもないのに、
この言い換えは、どうしてこんなに不快なんだろう。
手元にある辞書には、雇い兵なんて言葉は載っていない。
ってことは、報道は、従来からある言葉を使わず、
ない言葉を作り出してまで、常用漢字の規制を守ろうとしているってことか。
ふーん、常用漢字は日本語よりも大事なのか。
それじゃまるで、
健康のためなら命もいらない、っていうのと同じじゃないか。
へんなの。
ふつうに考えれば、言葉は貧しいよりも豊かな方がいいだろう。
豊かな言葉には、豊かな語彙が必要だろう。
では、豊かな語彙を育てるには、漢字を制限した方がいいのか、
しないほうがいいのか。
これはそんなに難しい理屈だろうか。
ぼくはこれまで、漢字をもっと制限しろ、なんて言っている人に
会ったことがないし、
そう論じている文章を読んだこともない。
漢字制限に反対する議論は、いくらでもあるけど。
いったい、こういう制限とか、書き換えって、
誰のためにやっているんだろうね。
第一さ、あんまり大きな声では言えないけれど、
傭兵という言葉を知らなくて、
調べようとも思わないような人は、
たとえそれを雇い兵と言い換えてもらっても、
やっぱり何も分からないと思う。
で、そういう分かる努力をしない人には、
分からせようとする必要など、ないと思う。
たとえば経済欄の「押し目買いが入って反発した」なんて記事は
明らかに分かる人だけに向けて書いているけど、
誰も文句は言わないでしょ。
スポーツ欄だって、知らない人にはちんぷんかんぷんなんだし。
国際欄だって、そういう姿勢でいいじゃない。
雇い兵。
どーでもいいが、弱そうな名前だ。
値段はわからん
古い古い記憶で出処も定かではないのだけれど、
とあるマンガの中で、
土地を売って儲けた百姓のじいさんが、
金の価値も分からないまま、
ひょうひょうとして途方もない無駄金を使う、という話があった。
その中でも、
フェラーリを買ったがすぐに飽きて、
乗らずにニワトリ小屋として使ってしまう、なんていう
エピソードが強烈で、忘れられない。
「フェラーリでニワトリを飼う」とは、すなわち、
物から価値という仮構をはぎ取り、裸にする行為である。
さて、こちらの画像は、バーバリーのジーンズである。
ジーンズメーカーとしては有名なのか知らないけれど、
そこはやはりバーバリー、定価は2万円くらいするようだ。
さすが高級感にあふれていますね。
ぼくはこれを今日手に入れたところなんだが、ふふーん、
じつは、掃除のときの作業着に使おうと思っているのである。
ほこりまみれになりそうなときや、水が跳ねて汚れそうなときには、
このバーバリーに履き替えるのだ。
フェラーリでニワトリを飼うみたいだろ。わはははは。
ま、それほど引っ張るようなネタでもないので、あっさり書くと、
このジーンズ、なーんと300円だったのです。300円。
びっくりっしょー。
ちょっとした汚れと破れでジャンク扱いだったのだが、
そもそもジーンズってもんは、
ダメージ加工だのペイント加工だのわざわざ汚して破ったヤツを
売っているくらいだから、本来この程度の傷みは、
商品としての価値をゼロにしてしまうものではないはずだ。
ではなぜ、2万円でちやほやされていたはずの人生が暗転して
300円になってしまったのか。
この子自身も分かっていないに違いない。
まったく、物の価値というのはじつに不思議だ。
材料費とか、加工時間だとか、そんなものとは関係なく、
2万円のジーンズは2万円だから2万円であり、
2千円のジーンズは2千円だから2千円である。
そして、
このあいだまで2万円の価値があると認められていたジーンズも、
今日300円と言われれば、
ふしぎなことに300円にしか見えなくなってしまうのだ。
ああ、まるで人生の浮き沈みを見ているようではないですか。
フェラーリでニワトリを飼うじいさんの強烈さに
隠れがちだけれども、
いきなりニワトリ小屋にまで落とされたフェラーリの気持ちにも、
こう考えると深いものがあるよねえ。
スマートフォンさえあれば
久しぶりに地下鉄に乗ってみたら、
スマートフォンを使っている人がほんとうに増えていた。
よく目につくのは、20代の若い人たちだ。
ぼくは携帯メールもろくに打てないおじさんだが、
けっこうあの手のガジェットは好きである。
かつてはPalmやClieなんていう機器で、
思いつきをメモしたり、スケジュールを書き込んだり、
電子書籍を読んだりしていたものだ。
だから今でも吊り革につかまりながら、
若者たちのiPhoneをこっそりのぞき見てしまう。
今どきの情報機器はどんな風なのか、やっぱり興味がある。
で、ほどなく分かったのは、
地下鉄の中でiPhoneを操作している人は、たいていは、
ゲームをしているってことである。
サンプル数5人くらいの話だから統計的には意味はないが、
非常に強く印象に残った。
ま、いろいろな使い方のできる機器というのは、
えてしてそういうものである。
娯楽番組から教養番組まで幅広く放送するテレビで、
圧倒的に見られているのは娯楽番組の方だし、
家庭で使われるパソコンで収集される情報は、
見たはしから忘れてしまうようなものがほとんどである。
スマートフォンも例外ではない。
素晴らしく役に立つ情報機器に素晴らしい役が任されることは
きわめてまれで、たいていはろくでもない気晴らしに使われる。
そのためだけに使われると言ってもいいくらいだ。
そのこと自体は悪いことじゃない。
ぼくもパソコンは、ほとんどそういう気晴らしに使っている。
しかし、パソコンといいスマートフォンといい、
おそらく買おうと決めたときには、そうとう高尚かつ知的な
できるビジネスマン的な使い方を想定していた人が多いだろう。
知的な道具を手にしたら、
もう知的で知的で仕方がないような生活が待っている、
なんて、ついつい思ってしまいがちだもの。
これだけいろいろな道具を遍歴してきて、
何も変わらない自分を十分に知りながら、
いや次の道具こそは、おれを知的に変えてくれるに違いない、
と期待してしまうのは面白い。
これは今どきの、一種の信仰なのかもしれないね。
なんとか直して使うのさ
修理に出していた腕時計が帰ってきた。
オーバーホールしてもらって、ぴかぴかになったのは
いいのだが、
ちょっと言えないくらいお金がかかってしまった。
財布もオーバーホールしちゃったわけだな、わっはっは。
…で、その時計を受け取りにいく途中で、
靴も直しに出してきた。
こっちは840円。
高くはないが、そもそもリサイクルショップで買った
1500円の靴だから、安くもない。
というわけで、ま、ぼくは身の回りのものを
いろいろ修理しては使っているのだが、
世の中全体の傾向としては、もう修理なんてことは
ほとんど顧慮されていないのではないかって思う。
以前は革靴のかかとは何度も直していたし、
ちょっと高い靴だったら、靴底全体を張り替えたりして
けっこう長く履いていた。
ところが今どきのウォーキングシューズってやつは、
そもそも最初から、直せる設計になっていない。
いちばん弱いゴム底がすり減ったら、
ほかがいくらしっかりしていても、捨てる。
それが当たり前である。
これは靴に限らない。
パソコンでも、マザーボードを交換して8万円なんていう
修理をする人が、どれだけいるだろう。
でね。何が言いたいかっていうとー。
よく子どものゲームをあげつらってさ、
駄目ならすぐリセットするのがいけない、なんてことを
言ったりするじゃない。
でも、壊れたら捨てて買い直すっていう風潮は、
つまるところ
このリセットしてやり直すっていうのと、
まったく同じじゃないかと思うわけ。
極端に言えば、
部屋が汚れてきたら引っ越ししちゃうとか、
仕事がごちゃごちゃしてきたらほっぽり出して転職しちゃうとか、
服にシミが付いたら捨てちゃうとか、
けんかしたらすぐ絶交しちゃうとか、
つらくなったらそのまま引きこもっちゃうとか、
そういうことにつながる要素があるんじゃないか。
そこまで言うのは極端でも、
根っこの部分は同じじゃないか、と思うのよ。
たしかに、直すより捨てるのが正しいんだよ。
でもそれは、経済という観点に立てばこその話であって、
ぼくたちの人生というのは、
何も経済だけで成り立っているわけじゃない。
今あることを何とか工夫してマシなものにしていく。
こんがらがって行き詰まってどうしようもなくなっても、
粘って何とか手を打っていく。
時代の風潮がどうであっても、
こういう姿勢だけは、ちゃんと守って行かなきゃだめだよね。
ことばが失われるときに
今ぼくたちが現に生きているこの世界は、それを
どのように見るか、
どのように感じるか、
という姿勢によって、さまざまな様相を示す。
当たり前の話だが、この世界、とひとくちに言っても、
ミノムシにとっての「この世界」は、
暗くて狭くて風に揺れるものであり、
となりのおっちゃんにとっての「この世界」とは、
ネクタイを締めて地下鉄に乗って出かけるところである。
世界の立ち現れるありさまは一様ではなくて、
それを受け取るぼくたち自身のあり方によって決まるのだ。
その意味で、世界はぼくたち自身の姿を映す鏡だ。
こういう世界のあらわれ方を、世界観、という。
世界は自分の鏡だから、
世界観とは、人生観とほぼ同義と言ってもよい。
まあ、ふつうにいえばこんなことなのだが、
いつの間にやら、この言葉は、
まるっきり違った意味で使われるようになっている。
ご承知のとおり、
ゲームの舞台設定やその雰囲気、という使い方である。
ことばがどんどん形を変えたり、
ぜんぜん別の意味を持って使われるようになったりするのは、
ごく普通のことだ、
だからことばの使われ方が変わったくらいで驚くべきではない、
という考え方もある。
でも、ぼくはそうは思わない。
世界観という言葉がなくなることは、
世界の見え方は自分のあり方そのものである、という事実を
とらえる糸口のひとつを失うことだ。
そして、
自分にとっての世界、自分を取り巻く環境、自分の生きる場を
変えていくには、それを受け取る自分自身を変えるしかない、
という自己変革の契機もまた、失われることになるだろう。
言葉は、ただコミュニケーションのためだけにあるのではない。
言葉が自分に向けられたとき、
それは、わたくしという世界を作り上げる材料となる。
だからひとつの言葉が失われるたびに、
わたくしの中から、あるべき何かが欠け落ちてゆくのだ。
ひとつひとつは、ほんの小さなかけらに過ぎないだろう。
でも、その小さなかけらが消えるごとに、
ぼくたちはその分だけ、ぼくたちではなくなっている。
子どもたちの未来には、すでに世界観という言葉はない。
子どもたちは、ほかにどんな言葉を失ったのだろう。
言葉を失った心には、どういう世界が映るのだろう。