タイムマシンがあったら、過去と未来とどっちに行きたいですか。
理由も合わせて教えてね。
ってなお題で作文を書かせてみた。
そのなかに、
未来に行って、大人になった自分を見てみたい
なんていうのがあった。
面白いな、と思った。
小学生の作文には、概して想像力が欠けている。
定型的な文章を並べることしかできない子どもが多い。
ぼくは月並みなことを無難に書いた作文よりも、
込み入ったことを書こうとして破綻した、
勇気ある作文を評価する。
んで、そのときも試しに訊いてみた。
そこで見た未来の自分がさ、
背が高くてスマートで仕事をばりばりこなす
やり手弁護士なんかだったら
いいかもしれないけどさ、もし
デブではげで貧乏でもてないおっさんだったら、
どうする?
そういう未来が待っていることを知りながら、
それでもきみは、
今みたいにこつこつ勉強を続ける気になるか?
今の社会は、将来に希望がもてない社会だと言われる。
マスコミのみなさんが
どういう社会観を作りたいのかはしらないけれど、
しかし、こういう子どもの作文を読むと、
子どもはそれほど将来を悲観していないような気がする。
楽観は無知と似たところがあるけれど、
未来のぼくを見てみたいなあ、と無邪気に言える明るさがあれば、
それを支えるものが楽観だろうが無知だろうが、
構わないように思う。
知識や情報がそろって悲観を指し示すのであれば、
そういうものには目を向けず、
根拠もなくへらへら明るく進んだほうが、
もしかしたら正解なのかもしれないしね。
投稿者「komodakenzo」のアーカイブ
不安がないのも
迷子になったことがない、という子が多い。
お母さんと買い物に行っても、はぐれたことがないという。
驚きである。
近ごろの子は、方向感覚が特にすぐれているのだろうか。
そうではない。
むろん、携帯電話のおかげである。
携帯電話は若い子の生活をすっかり変えた。
ひとり旅ですら、
いつでも連絡が取れるという安心感がある今となっては、
もう冒険ではなくなってしまった。
昔は携帯電話がなかったから、
いったん旅行をはじめると、もうすっかり普段の暮らしからは
切り離されてしまって、けっこう不安だったものだ。
公衆電話はあったけれど、たとえば家に電話しても誰も出ないとかね。
留守電に伝言を残す、なんていうこともできないんだよ。
伝言できても、電話をもらうってことができないんだよ。
不安だよね。
ATMもなかったから、手持ちのお金がなくなるとちょっと困った。
銀行の通帳を持っていても、今と違って他行で下ろせるようには
なっていなかった。
郵便局はさすがに全国ネットだったが、
郵便局ってのは、銀行と違って、
たいてい地元の人しか分からないようなところにあるもんだ。
そういうことを思うと、本当に便利になった。
便利になったということは、
いつでもどこでも日常の延長で過ごしていけるということだ。
ってことは、日常を離れた気分を、味わいにくくなっているということだ。
不安とか、寂しさとか、解放感とか、新鮮味とか。
いいとか、悪いとかではない。
ただ、ぼくたちは今、
人類が一度も経験したことのないまったく未知の世界を
生きていて、
いろんなことを得る代わりに、いろんなものを失っているんだな、
なんてことを思うわけさ。
あの、ぼく、いるんですけど
少し遅めの昼食をとっていたら、
奥のテーブルに、
幼稚園児を連れた母親グループがいた。
携帯電話が鳴った。
ひとりのお母さんが
席を立ちながら電話に出た。
出口の方に向かったから、
そのまま外に出るのかと思ったら、
ドアの近くに立ち止まって、
そこで話をし始めた。
たしかにお仲間からは十分離れているけれど、
ぼくからは3メートルと離れていない。
話はまる聞こえである。
その人にとって、お仲間は気をつかうべき相手だが、
見ず知らずの他人であるぼくのことは、
まったく眼中にないらしい。
面白いものだな、と思った。
もしかしてもしかして、
いま幼稚園児の母親になっているこの人は、
数年前には、かの「電車の中で化粧する女性」だったのかもしれない。
身近な人の視線はたいへん気になるけれども、
知らない他人のことはまったく気にしない、
というあの恐るべき若者たちが、
今、そのままのメンタリティをもって母親になっている、という
ことなのかもしれない。
子どもたちは(もちろん)、きゃあきゃあ声を上げながら、
客もまばらな店内を駆け回っている。
ふーむ。
Freedom
夜11時、どこからともなく現れた、クールな奴ら。
おじさんは、かばんからカメラを出して、
ふうふう走った。
ぜいぜいしながら、手持ちで撮った!
かっけー!
単なるメモなんですが。
先週届いた「てにをは辞典」。
適当なページをめくると、
ばんちゃ[番茶]▲が 冷める。
▲を 入れる。すする。つぐ。煮出す。
ってな感じ。いわゆるコーパスなんだが、
これがなかなか面白い。
言われて見れば当たり前の言葉の使い方でも、
自分の言葉は、意外なくらい小さなところを
うろうろしていることを知る。
「孔雀の羽の目がみてる」蜂飼耳
こういう文章を読むと、あ、随筆というのは、
とうてい素人が手を出せる領域じゃないな、と思う。
書き方が平明なだけに、
この人の目の見え方が際立っていることが分かる。
大したことじゃないことがらを、
文章の巧みさだけでごまかすような随筆も、
実はきらいじゃないのだが、
こうやって、見えているのに見ていないものを
見せてくれるような文章は、なおいい。
さっき思いついたこと。
忘れないうちに書いておこう。
せいぜいシャッターを押しただけで、
自分がそれを作り出したような顔をするな。
花の写真が美しいのは、
花が美しいからに決まっているだろーが。
おわり。
ネットにつながらない考
何日か前にルーターが故障して、
パソコンがネットにつながらなくなった。
外部とつながらないパソコンなんて、
ちょうど車庫から出られないクルマのようで、
まるで役に立たないもののように思われるけど、
つい十年前には、パソコンってのは、
こういうものだったんだよなー。
あの頃は、手書きではない活字のような字が、
自分の手から生み出されるということだけで
十分に刺激的で、
ペンとノートで考えるのとは
まるで違った文体ができあがったりするのが
とても楽しかった。
使い途と言えば、ただ文字を打つだけしかなかったが、
それでもパソコンは、
自分が何かを生み出すための道具として、
それなりに機能していたと思う。
今はどうだろう。
ネットを徘徊してぼんやり過ごすなんていうことで、
膨大な時間を失っている。
パソコンが、むしろ考えない道具になってしまっている。
ネットによって得られる情報や知識や刺激の量と、
ネットによって奪われている
読み書き考える機会とを比べてみれば、
とんでもなく出超になっているんじゃないか。
たしかにブログのようなものは
書くことの動機づけになっているとは思う。
しかしそこで書くのは、
よくも悪くも読まれるために書く文章だから、
純粋な日記に代わるものではない。
日記のように、外につながらない文章、
自分のためだけに書く文章がもたらす豊かさに、
もう少し目を向けるべきなのではないか。
ネットにつながらない何日かのうちに、
そんなことを、考えておりました。
(おまけ:日記的メモ↓)
積極的に、つながらない。
出し入れのスピードをうんと落とす?
郵便のように。
週に一度里に下りて買い出しをするように。
たとえば瞑想とか。自省とか。
散歩とか。
古典を読むとか。
少し奔流から身を引いて、
ひとつ内側の層の自分に語らせる。
今ではない時間に身をずらす。
情報処理は、考える代わりにはならない。
ぶるぶる。
ブログ的なお約束からいえば、
こういうものは、ぷぷぷっと笑ってしまうのが正しい作法だろう。
もちろんぼくも、笑うつもりでこれを撮った。
でもねー。
この怒りは、マンガのような仮構のものではなくて、
リアルな人間が引き起こし、
生身の人間が、ほんとうに怒っているものなのだ。
そういう想像力は、なくしてはいけないと思う。
今日はとても寒かった。
どうやら秋が来たようだねー。
安いときにまとめ買い
近所の本屋を通りかかったら、
ワゴンセールで岩波現代文庫が一冊200円で売っていた。
わーい。
200円ならと思ってあれもこれもと抱え込んでいたら、
いつの間にか隣に見知らぬおばあちゃんが立っていて、
いっしょにワゴンをのぞき込んでいる。
あら、あなた、いい本買ったわねえ、
なんて声をかけてくれるから、ふたこと三言ことばをかわす。
江戸人とユートピアなんて面白そうね、
はあ、歴史ものはお好きですか、
まあ歴史もいろいろ読みますよ、
岩波は買い取りで返品できないから
こういう安売りがあるんですね
なんて、
大した話はしていないが、妙に楽しかった。
7500円分が1400円で買えて、すごく得した気分。
それにしても、本の好みというか、関心の対象というか、
そういうものは、昔から情けないほど変わっていない。
中村雄二郎の「魔女ランダ考」は20年くらい前にも読んだし、
土屋恵一郎の本もずっと買っている。
ミッシェル・フーコーは(ちんぷんかんぷんだけど)
これで何冊になるだろう。
小林秀雄が講演で、今考えていることのもとは
みんな20代のときには出来上がっていた、
なんて言っていたけど、まったくその通りだと思う。
学生諸君は、まさか今の生活が、
そのまま一生の教養の幅を決めるだなんて、
夢にも思っていないだろうなー。
こんなことになるなんて
狭い路上に、車が一台停まっていました。
赤い車としておきましょう。
中には人が乗っています。
路肩はかなり余裕がありました。
そこにうしろからもう一台の車がやってきました。
青い車です。
広い道から右折してきたら、そこに車が停まっているのですから、
じゃまに違いありません。
それでも上手に角を曲がって、
そろそろと横を過ぎようとしたそのときです。
どんっ。
大きな音がしました。
気の毒に、右側に寄りすぎて、電柱にぶつかってしまったのです。
ワイパーがしゃかしゃかしゃかしゃか動きます。
ライトのレンズも割れてしまったみたいです。
青い車の人は、
ほんの少しその場に停まっていましたが、
降りて具合を確かめることもなく、
赤い車に文句を言うでもなく、
ワイパーをしゃかしゃか動かしたまま、
静かに走りさって行きました。
ぶつけてしまった人はもちろん、
ぶつけさせてしまった人も、気の毒でした。
悪気なんかこれっぽちもないのに、
人に迷惑を掛けて、恨まれてしまう。
誰にだって起こりそうなことですよね。
ごしごし
パソコンのキーが重くなってきたので、キーボードの掃除をした。
さすが名に負う不器用だけあって、1時間半もかかった。
デジカメで写真を撮った後、
キーを全部外して、うすめた中性洗剤に浸けて、
古歯ブラシでごしごし洗った。
キーボード本体は掃除機でほこりを吸って、綿棒で仕上げた。
デジカメの画像を見ながら、元の通りにくみ上げた。
どれどれ確認。
キーの配置は元通り。
キーの重さも元通り。あれー?