修理に出していた腕時計が帰ってきた。
オーバーホールしてもらって、ぴかぴかになったのは
いいのだが、
ちょっと言えないくらいお金がかかってしまった。
財布もオーバーホールしちゃったわけだな、わっはっは。
…で、その時計を受け取りにいく途中で、
靴も直しに出してきた。
こっちは840円。
高くはないが、そもそもリサイクルショップで買った
1500円の靴だから、安くもない。
というわけで、ま、ぼくは身の回りのものを
いろいろ修理しては使っているのだが、
世の中全体の傾向としては、もう修理なんてことは
ほとんど顧慮されていないのではないかって思う。
以前は革靴のかかとは何度も直していたし、
ちょっと高い靴だったら、靴底全体を張り替えたりして
けっこう長く履いていた。
ところが今どきのウォーキングシューズってやつは、
そもそも最初から、直せる設計になっていない。
いちばん弱いゴム底がすり減ったら、
ほかがいくらしっかりしていても、捨てる。
それが当たり前である。
これは靴に限らない。
パソコンでも、マザーボードを交換して8万円なんていう
修理をする人が、どれだけいるだろう。
でね。何が言いたいかっていうとー。
よく子どものゲームをあげつらってさ、
駄目ならすぐリセットするのがいけない、なんてことを
言ったりするじゃない。
でも、壊れたら捨てて買い直すっていう風潮は、
つまるところ
このリセットしてやり直すっていうのと、
まったく同じじゃないかと思うわけ。
極端に言えば、
部屋が汚れてきたら引っ越ししちゃうとか、
仕事がごちゃごちゃしてきたらほっぽり出して転職しちゃうとか、
服にシミが付いたら捨てちゃうとか、
けんかしたらすぐ絶交しちゃうとか、
つらくなったらそのまま引きこもっちゃうとか、
そういうことにつながる要素があるんじゃないか。
そこまで言うのは極端でも、
根っこの部分は同じじゃないか、と思うのよ。
たしかに、直すより捨てるのが正しいんだよ。
でもそれは、経済という観点に立てばこその話であって、
ぼくたちの人生というのは、
何も経済だけで成り立っているわけじゃない。
今あることを何とか工夫してマシなものにしていく。
こんがらがって行き詰まってどうしようもなくなっても、
粘って何とか手を打っていく。
時代の風潮がどうであっても、
こういう姿勢だけは、ちゃんと守って行かなきゃだめだよね。
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ことばが失われるときに
今ぼくたちが現に生きているこの世界は、それを
どのように見るか、
どのように感じるか、
という姿勢によって、さまざまな様相を示す。
当たり前の話だが、この世界、とひとくちに言っても、
ミノムシにとっての「この世界」は、
暗くて狭くて風に揺れるものであり、
となりのおっちゃんにとっての「この世界」とは、
ネクタイを締めて地下鉄に乗って出かけるところである。
世界の立ち現れるありさまは一様ではなくて、
それを受け取るぼくたち自身のあり方によって決まるのだ。
その意味で、世界はぼくたち自身の姿を映す鏡だ。
こういう世界のあらわれ方を、世界観、という。
世界は自分の鏡だから、
世界観とは、人生観とほぼ同義と言ってもよい。
まあ、ふつうにいえばこんなことなのだが、
いつの間にやら、この言葉は、
まるっきり違った意味で使われるようになっている。
ご承知のとおり、
ゲームの舞台設定やその雰囲気、という使い方である。
ことばがどんどん形を変えたり、
ぜんぜん別の意味を持って使われるようになったりするのは、
ごく普通のことだ、
だからことばの使われ方が変わったくらいで驚くべきではない、
という考え方もある。
でも、ぼくはそうは思わない。
世界観という言葉がなくなることは、
世界の見え方は自分のあり方そのものである、という事実を
とらえる糸口のひとつを失うことだ。
そして、
自分にとっての世界、自分を取り巻く環境、自分の生きる場を
変えていくには、それを受け取る自分自身を変えるしかない、
という自己変革の契機もまた、失われることになるだろう。
言葉は、ただコミュニケーションのためだけにあるのではない。
言葉が自分に向けられたとき、
それは、わたくしという世界を作り上げる材料となる。
だからひとつの言葉が失われるたびに、
わたくしの中から、あるべき何かが欠け落ちてゆくのだ。
ひとつひとつは、ほんの小さなかけらに過ぎないだろう。
でも、その小さなかけらが消えるごとに、
ぼくたちはその分だけ、ぼくたちではなくなっている。
子どもたちの未来には、すでに世界観という言葉はない。
子どもたちは、ほかにどんな言葉を失ったのだろう。
言葉を失った心には、どういう世界が映るのだろう。
雪の降る街を
センター試験の日には雪が降る、というお約束通り、
この冬初めての雪になった。
朝から断続的に降り続け、夕方には足首まで埋まるほどになった。
日が暮れてから、雪の街をみてみようと、お散歩に出かけた。
見慣れた星ヶ丘までの道が、まるで知らない北国のようだ。
ビルの明かりやクルマのライトに照らされた雪に、
道を行く人たちの影が浮かぶ。
すれ違う人はみな、髪にも肩にも雪を残している。
名古屋はほとんど雪が降らないので、
雪に備えている人はそれほど多くない。
すっかり踏み固められている下り坂の歩道を、
片手に傘をさした自転車のおねえさんがそろそろと走っていく。
勇者である。
オートバイも何台か走っている。
オートバイは傾けないと曲がらない乗り物だが、
凍結路で傾けるとふつうは転ぶ。
ブレーキをかけて前輪が滑ると、ひとたまりもない。
凍った道で転ぶと、起こすだけでも大変である。
あれでちゃんと帰り着けるのだろうか。
心配ではなくただの興味から、見届けたくなった。
このあたりは坂道が多い。
立ち往生しているクルマは2台や3台ではない。
面白いもので、困っている人には同情しても、
停まっているクルマにはそういう気持ちを感じない。
ふと、
目の前の人を撃つことはできなくても、地図上の地点とか、
建物だったらためらいない攻撃できる心理と同じだな、と思った。
まとまりのない雑感だけど、
年に一度あるかないかの機会なので、書き留めておく。
ほんとうの姿ってのは
ま、ぼくは男だから、いつでも素顔のわたしなんだが、
女性はふつう、
お外に出るときは化粧を整えるってことになっている。
さて、すると女性にとって、
素顔とお化粧の顏のどっちが本来の姿なんだろうか。
素朴な感想としては素顔が本来の姿と思いがちだけど、
どうなんだろうね。
たまたま部屋を散らかしているとき、来客があったとしよう。
きっと、
ふだんはもっとちゃんとしているのに、って思うだろう。
大あくびしている瞬間を写真に撮られたら、
ほんとは私はそんなんじゃないのに、と憤るだろう。
これはつまり、
しっかり意識して、見られる姿を整えているほうを
「ほんとう」と感じているからだ。
だったら女性にとって、きちんとお化粧をした顏が、
この意味で言う「ほんとうの姿」ってことになる。
明るく華やかな顔をしている人が、
化粧を落としたら
地味でつまらない顔になってしまうとしても、
それは、ほんとうは地味でつまらない顏、なのではなく、
つまらない顔のようにみえるけれど、
ほんとうは明るく華やかな顏、なのだ。
女性に限らず、人のほんとうの姿は、
くつろいだ=油断しきったおうちの顏であるよりも、
自分の意志で作り上げたよそ行きの顏の方だと思った方が、
何かとよいような気がする。
もし、何も手を加えないそのままの状態の方を
自分と規定するならば、
意識の制御を離れ、がーがーいびきをかいて寝ている姿が
いちばん自分らしい、ということになってしまうけど、
それは、違うでしょ。
自分で意識して作り上げた姿こそがほんとうの姿、
見せたい姿が本当の姿、
と考えるほうが、よほど自然だ。
ふだん人目につかないような、
人間の汚い愚かな狡い弱い見苦しい残酷な部分を
ことさらに描き出して、
これが人の真実だ、なんていう顔をしている
文芸作品もあるけれど、
こういう視点に立ってみると、
そうと決まったもんじゃないって気がする。
トイレに座っている姿がいくら情けなくても、
だから人間は情けない存在です、
なんていう結論にはならないように。
この方がよくない?
明るい感じがしてさ。
賢い消費者ってのは
食料品を買うとき、賞味期限をちゃんと確かめるのは、
買い物のイロハである。
同じお金を払うなら、新鮮な、賞味期限のできるだけ
長いものを選ぶ方がよいに決まっている。
わざわざ奥に並んでいるのをかき分けて選ぶ、
ってのも、ま、ありだろう。
ところで、ご承知のとおり、
ハンバーガーショップでもコンビニでも、
古くなった商品は、どんどん廃棄処分にする。
とんでもない量らしいね、これが。
小さな国なら一国分の食糧をまかなえるくらいとか。
よくないよね、こういうのは。
よその貧しい国からたっぷりと食糧を輸入して、
食べもしないで捨てるんだから。
その国には飢えている人もいるだろうに、ひどいよね。
さて。
ここでぼくが話題にしたいのは、じつは食品廃棄の問題ではない。
製造日の新しい食品を選ぶのは構わないし、
一方まだ食べられる商品をどんどん捨てることを
咎めるのも筋が通っている。
そのこと自体をとやかく言おうというのではない。
言いたいのはただ、
ひとりの人がその両方をやってしまうのはよくない、
ということである。
言うまでもないことだけれど、
賞味期限切れの食品が捨てられている背景には、というより、
むしろ直接の原因として、
いちばん新鮮な日付のものしか買ってもらえない、
という現実がある。
もうちょいとストレートに言うと、
お店から大量の残飯が出る原因の一端は、
後の列から牛乳を選ぶぼくやあなたにある。
にもかかわらず、食糧の大量廃棄には反対、というのは、
どう考えてもおかしいだろう。
言行不一致ってやつだ。
これは、日常的なだけに、なかなか大きな問題だ。
残飯をこんなに捨てちゃいけないよね、と考える以上、
いちばん古い牛乳を買うのか。
あるいは、残飯のことについては口をつぐみ、
いちばん新しい牛乳を買うのか。
それとも、
残飯の問題を語りながら、それこれとは話が別と割り切って、
自分は新しい牛乳を買うのか。
思想の価値とか有効性とか一貫性とか、
ことばとか、理性に対する信頼とか、
倫理とか、正しさとか、人としての矜恃とか。
じつにぼくたちは、スーパーの食パンの前で、
自分という存在のありのままの姿を問われているのだ。
さらに自分の些細な行ないが、
つもりつもって社会のありさまを決めている。
ってなことまで考えれば、
これはまた、社会に対する責任の問題でもある。
ひゃーっ。
いちばん親切、顔の飢餓
中学生の英語の教材に、
「このクラスで一番親切なのは誰ですか」
なんていう文を書かせるのがあった。
おもしろい。
電車でおばあちゃんに席をゆずった太郎君と、
雨の中で捨て猫を拾った次郎君と、
弁当を忘れた友だちに自分のを分けてやった三郎君を比べて、
だれの親切ポイントがいちばん高いかを比較考量すると、
まあ、そういうことになるんだろうか。
英語の勉強なんだから、そう目くじら立てなくても、
と言われそうだけれど、
こういうリアリティのない文を中学生に書かせるのは、
言葉を教える方法として、たいへんまずいと思う。
だってそれでは、
言葉なんてのはね、それっぽいことを書いときゃいいの、
意味なんかいいの、
って教えているのと同じなんだから。
これと関係があるのかないのか、
英文和訳をさせると、日本語としてまるっきり
意味をなさない訳文を書いて平気な子が多い。
たとえば、
face starvation 「飢餓に直面する」を
「顔の飢餓」と訳してしまう類いである。
もちろん分かっていないのだから、
おかしな解答を書くこと自体はいたしかたない。
しかし、誤答は誤答なりに、
意味の通った解答をしようという意思が見られないこと、
言い換えれば、
意味を持たない言葉を怪しまないということは、
ちーと問題なのではないか。
せめて、「飢えて苦しそうな顔をする」とか
「飢えた顏」とでも書けないものか。
これは英語力ではなく、言葉に対する姿勢の問題だ。
そもそも勉強っていうのは、
教科書やら先生のお話やらの言葉を介して
その言葉が指し示す意味を理解し、
蓄積していくことをいうのだから、
意味を持たない言葉に違和感を覚えるという感覚は、
とても大切なのだと思う。
聴く言葉には意味を求め、語る言葉には意味を込める。
こういう当たり前のことを、
ぼくたちは、もっともっと大切にすべきなんじゃなかろうか。
ま、もちろんね、
ロートレアモンの
「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」
なんていう文も
それなりにくらくらしてしまう魅力があるのだし、
ナンセンスな言葉は全部ダメ、なんてことが
言いたいわけじゃないんだけどさ。
無理をしよう
新年だー。
ということで、明日から塾も始まるのでした。
さあ今年も、がんばりましょうね。
で、この「がんばる」っていう言葉が言っているのは、
つまり、「無理をしようぜ」ということだって、
みなさん知っていましたか?
努力というのは、無理をすることです。
「みんなちがって、みんないい」というのはそのとおりですし、
「世界で一つだけの花」をめざすのもいいのですが、
それは決して、努力しないでいいんだよ、
なんてことを言っているのではありません。
「たねはたね、つぼみはつぼみでいい」
なんてことは、誰も言っていません。
もうちょっと無理をして、
あなたのたねにふさわしい、あなたのつぼみがひらけるだけの、
いちばん大きく、いちばんきれいな花を咲かせましょう。
さあ、力を振り絞れ。
がんばれ、受験生。
振り返れば
今年はとてもよい年でした。
来年もよろしく。
では、そこにいるのは
明かりの消えた店の外。こんな張り紙を見つけた。
男もおらず、
女もおらず、
そのいずれでない者もない。
古くは晋代の山海経(せんがいきょう)に描かれた
人外あるいは魔境の地か。
きゃー。
ことば遊び
泣く菰田。
(読み:泣く子も黙る)
すみません。思いついたらがまんできず…。
くだらないです。すみません。
言葉遊びです、仕方ないです。
かんにんです、かんにんです。