月別アーカイブ: 2007年2月

先週行ったところ

himico.jpg
この写真を見て、ピンと来た人は、
ちょっとした映画通かもしれない。
オダギリジョーと柴咲コウが主演した
「メゾン・ド・ヒミコ」の舞台である。
御前崎にあるカフェ、Welcome Tea。
日当たりのよい一角にある大きなテーブルに座ると、
庭のむこうに浜辺が見えた。
春を思わせる暖かな冬の日だった。
透明な光を浴びて波がやけに白い。
果てもなく続く波の寄せ返しを眺めているだけで、
いつのまにか気持ちが晴れ晴れとしてくる。
ぼくはメゾン・ド・ヒミコを観ていないし、
映画のロケ地だからといって特別な思い入れなどないのだが、
あの場所の、ふだんとはまったく違った空気は、
とてもよかった。
水平線がまあるく見渡せる海なんて、
これまでに見たことがあったろうか。

生きててよかった

4年ほど前から使っていたiPodが、いよいよヘタってきたらしく、
充電しても1時間くらいしか動かなくなってしまった。
毎日毎日がんがん使っていたので、納得の行くことである。
今となっては珍しい白黒ディスプレイの15GB。
酷使に耐えて、よく働いてくれた。
で、アップルにバッテリー交換を依頼したのだ。
往復送料税込みで、6800円。
別の業者に頼めば、もっと安くもっと大容量のバッテリーに
替えてもらえることは知っていたが、
あえてアップル本家に出したのにはわけがある。
なーんと。
アップルでは、
バッテリー交換、というのは名ばかりで、
実はまったくの新品と交換してくれるらしいのである。
ほんとかなー。
半信半疑のまま、待つこと一週間。
いよいよ返ってきたiPodを見てみると。
おお。
4年も使ってギタギタに傷をつけ、
そろそろハードディスクも危ないかも、と思っていたiPodが、
ほんとうに、ぴっかぴかの新品に代わっているじゃないか。
うひゃー。
感動しました。
もーれつに感動しました。
アップルさん、ありがとう。
3年経ったら、また頼みます。
古いiPodをお持ちのみなさん、ささ、こちらへ↓
http://www.apple.com/jp/support/ipod/service/battery/

なかなか大変。

バレンタインディである。
この日をハッピーな気分で過ごせた人はどれほどいただろう。
人づてに聞いた話だが、
チョコレートをもらえそうにないからと
学校を休んでしまった男の子がいるという。
チョコレートがもらえないくらい冴えない男だということは、
チョコレートがもらえるかどうかとは関わりなく
はたから見れば分かり切ったことなのに、
まったく気の毒なことである。
さて、友チョコというのをご存じだろうか。
文字通り、友だち同士でやりとりするチョコのことである。
まず義理チョコの新しいバージョンと思えばよろしい。
なかなかほほえましいと言えば言えるし、
意中の男の子がいなかったり、
いてもなかなか渡せないような女の子には、
格好の代償行為になっているのかもしれない。
しかしこれはこれで、なかなか気が重いもののようだ。
誰かにあげる、ということは、
誰かにはあげない、ということでもあり、
この選択が実に難しい。
自分がチョコをあげた子から同じようにもらえれば問題はないが、
もらえなかったら
ああ、この子は私を友だちと思っていないんだ、と傷つくし、
逆に自分があげなかった子からもらってしまうと、
ああ、どうしよう、私はこの子を傷つけてしまった、
なんて悩むことになるらしい。
おそらく今日は、全国の何百万という女の子たちが、
こんなふうにものすごーく気を遣い、
神経をすり減らすような思いをしていたのだろう。
友チョコなんていう言葉を
誰が作って流布させたのか知らないけれど、
そう考えると、なかなかむごいもんだよね。

物言えば唇寒しってか

柳沢大臣の発言の波紋がなかなかおさまらない。
女性を産む機械よばわりしただけでなく、
子どもを二人以上持つのは健全なことだ、
と発言したことが、格好の攻撃の的になっているのだ。
さっきもテレビを見ていたら、
「女性が子どもを産んでくれないと困る」とは
どういうことだ、
なんてかみついている女性議員がいた。
柳沢さんは百回も答弁に立ち、一分ごとに謝っていたとか。
ちょっと待て。
いや、ごめんなさい。待ってください。
少子化問題というのはつまるところ、
柳沢さんが言うとおり、
「女性が子どもを産んでくれないと困る」
ということじゃないんでしょうか。
彼が言いたかったのは、
女性ひとりひとりを見たときには
産むか産まないかは個人の自由に違いないが、
社会全体を見たときに、
みんなが産まない選択をしたらこりゃえらいことになる。
という極めて当たり前のことであって、
何も「こどもを産まない女性は困る」と言っているわけ
じゃない(はずだ)。
二人以上の子供を持つ夫婦を「健全」と言っているわけ
ではなく、
そうして人口が維持できる社会を「健全」と言っている
のだ(ろう)。
そりゃ、
産みたくても産めない女性がいる
子どもを産まない選択をする女性がいる
そういう女性のありかたを否定するのは許せない、
と言いたい気持ちはわかるし、
安心して子どもを産める社会環境を整えろ、という
要求もすごくまっとうだと思うのだが、
女性には産まない権利もあるのだから、
産まなくたっていいじゃないか!
というところまでいくと、
まったく理屈がわからなくなってしまう。
だってそれじゃ、
ショーシカなんてノープロブレム、ってことに
なっちゃうでしょ。
もう揚げ足取りはいいからさ、
報奨金を山のように出すとか、
大学までの教育費を無償にするとか、
そういうたぐいの実効性のある政策について議論してくれると
納税者としてはうれしいんですけど。

きょうも朝日は

おとといの朝日新聞夕刊のトップを飾ったのは、
「女は産む機械」発言で総スカンを食っている柳沢大臣が
参院予算委員会で大あくびをしている写真だった。
ご覧になりました?
もう何というか、マスコミの、というか
朝日新聞の見識の低さというのは、もはや犯罪的である。
柳沢という人は、
こんな状況にあっても大あくびしてしまうような人なんですよ、
ということを伝えたいのは分かるが、
このやり方はあまりにも卑劣じゃないか。
もしいいタイミングであくびをしてくれなかったら、
憮然としているように見える写真を使ったのか。
それとも目を閉じた瞬間を撮って、
居眠りしているかのように報じたのか。
次に載せるのは、馬鹿そうに見える写真か、
腹黒そうに見える写真か。それとも
開き直った態度のふてぶてしい写真か。
いいかげんにしてくれ。
こんなことをして何になる。
新聞を「よいもの」だと素朴に信じているこどもたちが、
かくも低級なものを正義だと誤解したらどうする。
朝日といえども新聞屋の端くれなんだから、
ねちねちせずに、堂々と政策批判をすればいいじゃないか。
ぷんぷん。

肩がこりこり。

どういうわけか、肩こりがひどい。
腕が上がらないし、頭痛までしてきて、憂鬱である。
体の不調を自慢するようになっちゃおしまいだが、
まったく何とかならないものか。
さて肩がこるのは日本人だけ、
という話を聞いたことがあるだろうか。
日本人には猫背が多いとか、肩の筋肉が足りないとか、
まことしやかにその原因が説かれたりもしているようだが、
どうもにわかには信じがたい。
世界はひとつ人類はみな兄弟であるという事実に鑑みて、
日本人だけ肩がこる特殊な身体構造をしているなんて、
非科学的だと思わないか。
彼らは論理的に語ることを訓練されているから、
僧帽筋と肩を厳密に区別し、わたしのこの痛みは、
肩ではなく僧帽筋のそれである、と思って答えた
のかもしれない。
あるいは、言語が未発達で「凝る」にあたる繊細な
語彙を持っていないのかもしれない。
それとも揃いもそろってウソつきで、
ほんとは凝っているくせに凝っていないと言い張って
いる可能性も捨てきれない。
どの仮説を採るにせよ、肩が凝らない、というよりは、
まだマシなんじゃなかろうか。
本邦には「瞳を閉じて」なんていう曲があるが、
外国人にどんなとき瞳を閉じるか聞いてみるといい。
彼らは驚倒し、バケモノのようにあなたを見るはずだ。
おれたちは瞳を閉じたりはしない、
まぶたなら閉じるけど、というわけである。
肩こりもおそらくはこの類なんだろう。
日本人はとかく自分たちを特殊だと思いたがる。
しかし、あなただけは特別、という話にろくなものはない。
気をつけましょう。

ともだかさん、こんにちは

昼寝をしたら夢を見た。
著名ななんやら研究家の友高(ともだか)さんを訪ねた。
お名前が奇しくもうちの家紋と同じというご縁で、
今日の訪問と相なったのだ。
でも、話をしているうちに気がついてしまった。
うちの家紋は「おもだか」だ。
ちがうじゃーん。
言い出せないうちに目が覚めた。

ちにくなはなし

Dという有名な国語の先生がいる。
著作が多いこともあって、
受験生の間ではいちばん有名な先生のひとりだろう。
いつだったか、この人のCD講義を聞いてみたら、
「こうして学んだことが諸君の「ちにく」となる」なんて
ことを語っていて、驚いたことがある。
言うまでもなくこれは「血肉」のことだ。
誰でもその程度の思い違いはあるものだから、
そんなことで鬼のヘソでも取ったように騒ぐつもりはない。
(首だってば)
幕間を「まくま」、思惑を「しわく」と読んでしまうくらいの
ことは、珍しくもなかろう。
ここで言いたいのは、
なーんだDなんて有名だけどダメダメじゃん、ということではない。
そんな負け犬の無駄吠え(遠吠えだってば)のようなことではなく、
誰に限らず、
生まれたときから国語が得意で仕方がなかった、なんていう人は、
おそらく国語の勉強なんてしたことがないだろうなあ、
ということである。
だからもしかしたら、国語が得意だった人ほど、
じつはこういう「知っているつもりで間違っている言葉」が
たくさんあるんじゃないか。
ぼくも大学入試のときですら、
おそらく国語は1時間も勉強しなかったクチだが、
得意と思っていたからこそ、
とてもここには書けないような恥ずかしい間違いを
たくさんしてきたものである。
大学生になるまで「節」という字は竹かんむりの下に
「郎」ようなテンを付けると思っていたし、
版図を「はんず」と読んでいたし、
「母」の書き順も違っていたし、
カタカナの「ヲ」の書き方なんて、ついこの間まで
知らなかった。
こういうことは漢字の勉強をしていれば、
おそらく確実に避けられることである。
つまりこれは、
おれは国語が得意だもんね、なんて慢心している人よりも、
苦手と思ってこつこつ勉強している人の方が、
やがては正しい言葉を使えるようになる可能性が高い、
ということである。
アリとキリギリス(ウサギとカメだっでば)の教訓は、
いまだに古びてはいないのだ。
おまけ:
血肉(けつにく)、幕間(まくあい)、思惑(おもわく)、
版図(はんと)、ヲの書き順/よこよこななめ。

怪しい者じゃありませんってば

寒いのは苦手だが、嫌いではない。
歩くのは寒いが、苦手ではない。
今日もうんと遠回りをして歩いてみた。
寒かったんだけど。
自宅から教室までは真面目に歩けば15分で着くはずなのに、
近ごろは1時間近くかかることもある。
ちょっと遠回りするつもりでも、
知らない道ではほぼ確実に迷うので、
ちょっとでは済まなくなることがあるのだ。
もう十年以上通っている道で迷うというのは、驚くべきことである。
それも徒歩によるごく限られた範囲で迷えるのだから、
すでに異能といってよい。
そうそうずいぶん前になるが、
ふらふら歩き回っているうちに
雑木林の奥に迷い込んでしまったことがある。
方向音痴の者にとっては、
雑木林と樹海の違いは、ただ規模の違いでしかない。
冗談ではなく、ほんとうに出られないような気がした。
冬なのに汗だくになったから、けっこう本気で焦っていたのだ。
そのうちにどこをどう歩いたのか、
ようやく林の向こうが透けて見えた。
わーい、と喜んでがさがさ藪をかき分けて出てみたら、
そこに広がっていたのはユーカリの畑だった。へ?
夢の話ではない。
ここ名古屋の動物園にはコアラ様がお住まいなのである。
ユーカリの葉っぱは八百屋じゃ買えないから、
栽培していることに何の不思議もない。
しかしまあ、あれね。
ユーカリ畑があるなんて予想もしていなかったから、驚いたです。
コアラちゃん用だということくらいは分かるけど、
いかにも唐突な感じじゃないですか。
なーんでこんなところに、と思ったが、
藪の中からがさがさと、
コートを手にして汗かいたおっさんが出てくる方が、
よっぽど場違いってもんだよなー。