夕方まで仕事がないのをいいことに、
郡上八幡に行ってきた。
つい先週まで、
大勢の人が夜を徹して踊りさんざめいていたなんて、
嘘のようだ。
この町は、どこを歩いても水の音がする。
夏には若い子たちが
町の真ん中を流れる吉田川を目がけて、
12メートルもある高い橋から次々に飛び込むという。
もちろん危険がないわけはない。
よそから来た学生が溺れて亡くなる事故もあった。
それでも市は飛び込みを禁止するわけでもなく、
「飛び込むときは気をつけましょう」なんていう
看板を立てているだけである。
こうした鷹揚さは好もしい。
橋の上から釣りをしている人を眺めていたら、
バイクで配達中のおじさんに、
釣れてますか、と声を掛けられた。
どうですかねえ、なんてあいまいに答えたが、
おじさんはぼくの返事など聞きもせず、
じいっと川のおもてを見つめている。
仕事なんてほっぽり出して、
釣りたい一心なのがおかしかった。
だって楽しいんだもーん
地下鉄に乗ったら、
シートから身を乗り出しながら、
ゲームに熱中している人がいた。
ドラクエだか何だか、
口を開けてRPGに没頭するその人は
どうみてもお父さん世代で、
年のころは40代半ばに見えた。
思えばかつて
「電車の中でマンガを読む大学生」
というのが世間のひんしゅくをかったものである。
40代半ばのお父さん、というのは、
ちょうどその世代に当たるわけだ。
近頃の若いモンは、と
さんざんと言われたダメダメ世代が、
なりは背広に変わっても、
中身はさっぱり変わらずに、
歳だけ取ってしまっている、
ってことかもしれない。
ゲームを楽しむことはよい。
でもおじさんが人前でぴこぴこやっているカッコ悪さは、
電車で化粧することの比ではない。
みっともないだけじゃない。
あれが珍しくなくなった日には、
あろうことか子どもたちは、
人前で堂々とゲームに没頭する大人を
さほど怪しむこともなく、
下手をすれば身近なモデルと思いながら、
育っていくことになる。
どんな生き方をしても構わない。
でも、
次の世代を道連れにするのだけはやめてくれ。
ひとりもよいもの
高校生の頃、
名古屋の自宅から京都まで、ひとりで歩いたことがある。
6日間の小旅行である。
昼間はただ黙々と歩き、
神社の陰で寝袋にくるまって眠る、
なんていう道中が、楽しいはずはなかったが、
あれは貴重な体験だった。
おう、乗ってけよ、
と声を掛けてくれたトラックの運ちゃんも、
こころよく泊めてくれたお寺の人も、
顔は覚えていないけど、懐かしい。
あんな淋しさや不安や心細さは、
大人になってしまってからは、
なかなか味わえるものではない。
たしかにあの大学生のように、
仲間とにぎやかに出かけるのも楽しいだろう。
でも、楽しいことがいちばんよいとは限らない。
楽しくなくてさびしくて、
それでも素晴らしいことってのが、やっぱりある。
若くて馬鹿で弱くて貧乏なうちに、
そんなことのひとつを体験できてよかった、と思う。
若く明るく無神経
おとといだったか、
鳥取砂丘に巨大な落書きをした大学生の記事を読んだ。
大学のサークルで160kmの徒歩旅行をしたそうだ。
ゴールに到着した記念に、サークル名を書き残したそうだ。
砂丘のうちでももっとも名高い「馬の背」とよばれる場所に、
差し渡し50メートルもあるでっかい字で、
時間をかけて、せっせと足で掘り、
その写真を自分のブログで公開していたそうだ。
砂丘が器物に当たるか、なんてことはどうでもいい。
自然公園法の規定なども関係ない。
単純に、自分たち以外の人がそれを眺めたら、
腹立たしい思いがするだろう、という
当たり前のことに誰も思い及ばなかったのかしらん。
もっとも、彼らばかりが特殊なわけではない。
たとえば
居酒屋の前の歩道いっぱいに広がって、
大きな声で騒いでいる学生たちも、
まあ、メンタリティとしては同じである。
人として「無神経」と呼ばれることほど
恥ずかしいことはない。
おじさんは、そう思うんだけど、
若い皆さんは、違うのかなあ。
いじめられっ子、世をはばかる
さきほど安倍首相が辞意を表明した、という
ニュースを知りました。
このこと自体はわたしにとって
どうでもよいことなのですが、
どういう巡り合わせか、
分不相応な重責を担わされてしまって、
何とも気の毒な人だったなあと思います。
最後に残した言葉が
「テロとの戦いを継続していかなければ」
というのも痛々しい。
これはすなわち
わが国が最優先すべきは、
アメリカに忠義を尽くすことだ」
という意味でしょうが、
テレビ時代の政治家は、
政策的に正しい事を述べるよりも、
空気を読んだ発言をすることの方がより大事だ、
ということが分かっていらっしゃらない。
よほど実直な人なのでしょう。
同じく妙な巡り合わせで総理になってしまった
細川護煕さんも、
途中で職を放り出し、世間の非難を浴びたものです。
しかし、若くして政界を引退した後は、
お殿様らしく陶芸家として趣味の世界に
暮らしていらっしゃるご様子です。
政治という世界は、
誰かが担わなければならないものですが、
代わりは必ずいるものです。
ここはいっそ細川さんにならうのも、
ひとつの身の処し方ではないでしょうか。
強大な権力というものの重さは、
ひとりの小さなからだで支えるには、
あまりに大きすぎます。
もしかしたら安倍さんも、
普通の家に生まれ、
身の丈に合った生き方をしたかったのかも
しれませんね。
さよなら、ピカソ
岡崎の美術館に、ピカソを観に行った。
青々とした広い公園の斜面に立つ美術館は、
前に来たときからのお気に入り。
子どもたちに見せたかったのは、
じつはピカソの絵ではなく、
この美術館の方だったのかもしれない。
ピカソの絵は、グラフィックアートとしては
けっこう好きだ。
キュビズムに行く前の青やバラ色の時代もよい。
ていねいに構築された作品は、
いくら解体されデフォルメされていても、
それはある必然性のもとにその形をしているように
見えて、やはり美しいと思う。
でも今日の展覧会はまるっきりダメだった。
もちろん大天才のピカソがダメなはずはないから、
駄目なのは、ぼくの方に決まっているのだが、
今日の駄目ぶりは、ちょっとつらかった。
ここ数週間、ずっとゴッホの手紙を読んでいるのが
いけなかったのだろう。
不遇というにはあまりにむごいゴッホの生涯がちらついて、
あふれんばかりの富と名声を得たピカソの華やかさが、
ねたましくて仕方がなかった。
芸術家というよりも、社会的な成功者としての
ピカソを見てしまった。
そうなると、もういけない。
虚心に絵を眺めることなどできるはずもなく、
ちゃっちゃと描いた作品も、
つぎつぎと女性を遍歴する暮らしぶりも、
得意げな顔の写真も、
みんな腹立たしく思えてきてしまう。
もやもやした気持ちを整理できないでいるうちに、
ピカソはもういいや、というよりも、
とうとうピカソはもういやだ、くらいの気分に
なってしまった。
夢の匂い
トイレの床の排水口が詰まった、夢を見た。
うちのトイレの床はタイル張りではなく、
あんな排水口もないのだが、
とにかくうちのトイレだった。
中に手をつっこんで、パイプに詰まっているものを
引きずり出すと、
それは脱水の済んだ洗濯物のようにねじれた
シャツであり、タオルであり、ハンカチである。
ずるずるずる、と両手でたぐり出し終わったら、
排水パイプの臭いがした。
夢に臭いがあるかどうか、学説は知らない。
ほんとうに寝台のあたりに悪臭が漂っていて
それを半ば目覚めながら嗅いだのかもしれないが、
それよりも、
眠りながらも、排水口といえば臭うはずだ、
と判断して、脳の中で臭いを作り出した、
と考える方がおもしろい。
夢を「見る」という
視覚的な疑似体験が当たり前にできるのだから、
こうやって夢を「嗅ぐ」ことができたって、
何も不思議はない。
外からの刺激があろうがなかろうが、
脳が匂いを嗅いだのと同じ反応をすれば、
臭いを現実として感じることができる、というわけだ。
まことに面白い体験だった。
もっとも、
これと同じことが目覚めているときに起きたなら、
それは幻覚と称され、
笑いごとではすまなくなるのだが、
われわれの正常さなんてものは、
一見不動のもののように見えるけれども、
しょせん
この程度の危ういバランスの上に立った
かりそめのものに過ぎないんだ、
なんて言ってしまったら、
たかが夢には大げさかね。
確信犯ですか?
かくしん-はん【確信犯】
道徳的・宗教的または政治的確信にもとづいて行われる犯罪。
思想犯・政治犯・国事犯などに見られる。(広辞苑第五版)
歴史は繰り返すのか
新聞にすごいチラシが入っていた。
家から10番目くらいに近い、
すなわちけっこう遠くのコンビニが、
「千円以上配達料無料」で宅配をしてくれるというのだ。
それは便利でいいね、というよりむしろ、
コンビニはそこまでの競争に突入しているのかと、
恐ろしいような気分になった。
いったい、コンビニのコンビニエンス(便利さ)に
まだ不満を感じている消費者がいるのだろうか。
あえて問題点を挙げろと言われて、
無理やり考えればいろいろ出てくるかもしれないが、
こういうところが不便で困っている、なんていうことは、
コンビニに関しては、もう何もないのではないか。
宅配というアイデアは、
おそらく他店との差別化という視点から
絞り出したものであり、
本当の必要から生まれたものではないと思う。
しかし一度気づいてしまったからには、
これからのコンビニは、宅配くらいやらないと
淘汰されてしまうような時代がほんとうに
やってくるのかも知れない。
そして、もしかしたら宅配の次は、
電話を待つのではなく、
消費者のニーズをこちらから聞き出さなくてはいけない、
なんてことになり、
コンビニのみなさんは、
こんちはー、三河屋で~す、今日はよろしかったですか。
ってなサービスを競って始め、
いつの間にか昭和40年代に逆戻りしてしまう、という
ことになるのだろう。
ほう。
エアコンよ、エアコンよ。
今日、教室のエアコンを取り換えた。
クリーニングしてから、ほんの2ヶ月も経っていない。
痛恨の判断ミスであるが、致し方ない。
思い起こせば11年前(だっけ?)、
エアコンを取り付ける際に、
塾は夜しか使わないんだから、と考えて、
気持ち小さめのエアコンを選んだのは、
間違っていなかったと思う。
ところが強烈な西日と、
汗をかいて飛び込んでくる子どもたちの体温は、
計算上の適正値や合理的な判断などの
とうてい及ぶところではないほどの、
猛烈な暑さをもたらすものだった。
「教室は、子どもたちの熱気でむんむん」
というのは、比喩でも何でもなかったのである。
もっともこれも、すでに過去のことである。
新しいエアコンがすべてを変えてくれた。
もちろん、それなりのお金はかかったが、
子どもたちが快適に過ごしてくれるなら、惜しくはない。
そう思う。
さて、子どもたちは喜んでくれたかなあ、と思っていたら、
さっきKちゃんが話しかけてきた。
「先生、エアコンいつ替えるの?」だって。