投稿者「komodakenzo」のアーカイブ

雪の降る街を

センター試験の日には雪が降る、というお約束通り、
この冬初めての雪になった。
朝から断続的に降り続け、夕方には足首まで埋まるほどになった。
日が暮れてから、雪の街をみてみようと、お散歩に出かけた。
見慣れた星ヶ丘までの道が、まるで知らない北国のようだ。
ビルの明かりやクルマのライトに照らされた雪に、
道を行く人たちの影が浮かぶ。
すれ違う人はみな、髪にも肩にも雪を残している。
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名古屋はほとんど雪が降らないので、
雪に備えている人はそれほど多くない。
すっかり踏み固められている下り坂の歩道を、
片手に傘をさした自転車のおねえさんがそろそろと走っていく。
勇者である。
オートバイも何台か走っている。
オートバイは傾けないと曲がらない乗り物だが、
凍結路で傾けるとふつうは転ぶ。
ブレーキをかけて前輪が滑ると、ひとたまりもない。
凍った道で転ぶと、起こすだけでも大変である。
あれでちゃんと帰り着けるのだろうか。
心配ではなくただの興味から、見届けたくなった。
このあたりは坂道が多い。
立ち往生しているクルマは2台や3台ではない。
面白いもので、困っている人には同情しても、
停まっているクルマにはそういう気持ちを感じない。
ふと、
目の前の人を撃つことはできなくても、地図上の地点とか、
建物だったらためらいない攻撃できる心理と同じだな、と思った。
まとまりのない雑感だけど、
年に一度あるかないかの機会なので、書き留めておく。

ほんとうの姿ってのは

ま、ぼくは男だから、いつでも素顔のわたしなんだが、
女性はふつう、
お外に出るときは化粧を整えるってことになっている。
さて、すると女性にとって、
素顔とお化粧の顏のどっちが本来の姿なんだろうか。
素朴な感想としては素顔が本来の姿と思いがちだけど、
どうなんだろうね。
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たまたま部屋を散らかしているとき、来客があったとしよう。
きっと、
ふだんはもっとちゃんとしているのに、って思うだろう。
大あくびしている瞬間を写真に撮られたら、
ほんとは私はそんなんじゃないのに、と憤るだろう。
これはつまり、
しっかり意識して、見られる姿を整えているほうを
「ほんとう」と感じているからだ。
だったら女性にとって、きちんとお化粧をした顏が、
この意味で言う「ほんとうの姿」ってことになる。
明るく華やかな顔をしている人が、
化粧を落としたら
地味でつまらない顔になってしまうとしても、
それは、ほんとうは地味でつまらない顏、なのではなく、
つまらない顔のようにみえるけれど、
ほんとうは明るく華やかな顏、なのだ。
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女性に限らず、人のほんとうの姿は、
くつろいだ=油断しきったおうちの顏であるよりも、
自分の意志で作り上げたよそ行きの顏の方だと思った方が、
何かとよいような気がする。
もし、何も手を加えないそのままの状態の方を
自分と規定するならば、
意識の制御を離れ、がーがーいびきをかいて寝ている姿が
いちばん自分らしい、ということになってしまうけど、
それは、違うでしょ。
自分で意識して作り上げた姿こそがほんとうの姿、
見せたい姿が本当の姿、
と考えるほうが、よほど自然だ。
ふだん人目につかないような、
人間の汚い愚かな狡い弱い見苦しい残酷な部分を
ことさらに描き出して、
これが人の真実だ、なんていう顔をしている
文芸作品もあるけれど、
こういう視点に立ってみると、
そうと決まったもんじゃないって気がする。
トイレに座っている姿がいくら情けなくても、
だから人間は情けない存在です、
なんていう結論にはならないように。
この方がよくない?
明るい感じがしてさ。

賢い消費者ってのは

食料品を買うとき、賞味期限をちゃんと確かめるのは、
買い物のイロハである。
同じお金を払うなら、新鮮な、賞味期限のできるだけ
長いものを選ぶ方がよいに決まっている。
わざわざ奥に並んでいるのをかき分けて選ぶ、
ってのも、ま、ありだろう。
ところで、ご承知のとおり、
ハンバーガーショップでもコンビニでも、
古くなった商品は、どんどん廃棄処分にする。
とんでもない量らしいね、これが。
小さな国なら一国分の食糧をまかなえるくらいとか。
よくないよね、こういうのは。
よその貧しい国からたっぷりと食糧を輸入して、
食べもしないで捨てるんだから。
その国には飢えている人もいるだろうに、ひどいよね。
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さて。
ここでぼくが話題にしたいのは、じつは食品廃棄の問題ではない。
製造日の新しい食品を選ぶのは構わないし、
一方まだ食べられる商品をどんどん捨てることを
咎めるのも筋が通っている。
そのこと自体をとやかく言おうというのではない。
言いたいのはただ、
ひとりの人がその両方をやってしまうのはよくない、
ということである。
言うまでもないことだけれど、
賞味期限切れの食品が捨てられている背景には、というより、
むしろ直接の原因として、
いちばん新鮮な日付のものしか買ってもらえない、
という現実がある。
もうちょいとストレートに言うと、
お店から大量の残飯が出る原因の一端は、
後の列から牛乳を選ぶぼくやあなたにある。
にもかかわらず、食糧の大量廃棄には反対、というのは、
どう考えてもおかしいだろう。
言行不一致ってやつだ。
これは、日常的なだけに、なかなか大きな問題だ。
残飯をこんなに捨てちゃいけないよね、と考える以上、
いちばん古い牛乳を買うのか。
あるいは、残飯のことについては口をつぐみ、
いちばん新しい牛乳を買うのか。
それとも、
残飯の問題を語りながら、それこれとは話が別と割り切って、
自分は新しい牛乳を買うのか。
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思想の価値とか有効性とか一貫性とか、
ことばとか、理性に対する信頼とか、
倫理とか、正しさとか、人としての矜恃とか。
じつにぼくたちは、スーパーの食パンの前で、
自分という存在のありのままの姿を問われているのだ。
さらに自分の些細な行ないが、
つもりつもって社会のありさまを決めている。
ってなことまで考えれば、
これはまた、社会に対する責任の問題でもある。
ひゃーっ。

いちばん親切、顔の飢餓

中学生の英語の教材に、
「このクラスで一番親切なのは誰ですか」
なんていう文を書かせるのがあった。
おもしろい。
電車でおばあちゃんに席をゆずった太郎君と、
雨の中で捨て猫を拾った次郎君と、
弁当を忘れた友だちに自分のを分けてやった三郎君を比べて、
だれの親切ポイントがいちばん高いかを比較考量すると、
まあ、そういうことになるんだろうか。
英語の勉強なんだから、そう目くじら立てなくても、
と言われそうだけれど、
こういうリアリティのない文を中学生に書かせるのは、
言葉を教える方法として、たいへんまずいと思う。
だってそれでは、
言葉なんてのはね、それっぽいことを書いときゃいいの、
意味なんかいいの、
って教えているのと同じなんだから。
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これと関係があるのかないのか、
英文和訳をさせると、日本語としてまるっきり
意味をなさない訳文を書いて平気な子が多い。
たとえば、
face starvation 「飢餓に直面する」を
「顔の飢餓」と訳してしまう類いである。
もちろん分かっていないのだから、
おかしな解答を書くこと自体はいたしかたない。
しかし、誤答は誤答なりに、
意味の通った解答をしようという意思が見られないこと、
言い換えれば、
意味を持たない言葉を怪しまないということは、
ちーと問題なのではないか。
せめて、「飢えて苦しそうな顔をする」とか
「飢えた顏」とでも書けないものか。
これは英語力ではなく、言葉に対する姿勢の問題だ。
そもそも勉強っていうのは、
教科書やら先生のお話やらの言葉を介して
その言葉が指し示す意味を理解し、
蓄積していくことをいうのだから、
意味を持たない言葉に違和感を覚えるという感覚は、
とても大切なのだと思う。
聴く言葉には意味を求め、語る言葉には意味を込める。
こういう当たり前のことを、
ぼくたちは、もっともっと大切にすべきなんじゃなかろうか。
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ま、もちろんね、
ロートレアモンの
「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」
なんていう文も
それなりにくらくらしてしまう魅力があるのだし、
ナンセンスな言葉は全部ダメ、なんてことが
言いたいわけじゃないんだけどさ。

無理をしよう

新年だー。
ということで、明日から塾も始まるのでした。
さあ今年も、がんばりましょうね。
で、この「がんばる」っていう言葉が言っているのは、
つまり、「無理をしようぜ」ということだって、
みなさん知っていましたか?
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努力というのは、無理をすることです。
「みんなちがって、みんないい」というのはそのとおりですし、
「世界で一つだけの花」をめざすのもいいのですが、
それは決して、努力しないでいいんだよ、
なんてことを言っているのではありません。
「たねはたね、つぼみはつぼみでいい」
なんてことは、誰も言っていません。
もうちょっと無理をして、
あなたのたねにふさわしい、あなたのつぼみがひらけるだけの、
いちばん大きく、いちばんきれいな花を咲かせましょう。
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さあ、力を振り絞れ。
がんばれ、受験生。

では、そこにいるのは

明かりの消えた店の外。こんな張り紙を見つけた。
男もおらず、
女もおらず、
そのいずれでない者もない。
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古くは晋代の山海経(せんがいきょう)に描かれた
人外あるいは魔境の地か。
きゃー。

ことば遊び

泣く菰田。
(読み:泣く子も黙る)
すみません。思いついたらがまんできず…。
くだらないです。すみません。
言葉遊びです、仕方ないです。
かんにんです、かんにんです。
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MOU48

ものすごく私事ながらきょうは誕生日。
もう48である。
よもや自分がこんな年齢を迎えることになろうとは、
思ってもみなかった。
そういえば以前、小学生の女の子に歳をきかれ
答えるのをためらったことがあった。
えーっ、せんせーそんなおじさんなの?
なんて言われるのが嫌だったのだ。
そのとき、ぼくは35。
35でもうおじさんと思っていたなんて、
どうにも贅沢な話である。
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フォーエバーヤングなんていうありえないことを願うのではなく、
年齢相応の賢さを身につけていけたら、と思う。
人の世には、
40にならなければ分からないこと、
50になってはじめて身につく知恵ってものがあるはずなのだ。
そいつがちょいと、楽しみだ、と言っておこう。

ぼくはわたしをおれと呼ぶ

ぼくは、ここでは自分をぼくと書き、
仕事をするときは、私といい、
家族や親しい友人の前では、おれと呼ぶ。
自分のことをお父さんとは言わないが、
おじちゃんはね、という語り口は結構好きだ。
女性だって、私とあたしとお母さんの
使い分けくらいはしているだろう。
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わたしと称するとき、ぼくの人格はわたしに切り替わる。
おれと称するとき、おじちゃんと称するとき、
ぼくの人格は
その呼称にふさわしいものに切り替わっている。
ぼくがここでぼくと称しているのは、
私と呼ぶほど円熟しておらず、
いまだに物事がよく分かっていない自分として書いている
からだろう。
はっきり自覚しているわけではないが、
きっとそんなところだ。
もしぼくが私としてこれを書いているのなら、
表現の仕方だけでなく、選ぶテーマも内容も、
もしかしたら感想や結論さえも、
まったく違ったものになっているかもしれない。
自分をどう称するかによって、
世界に向かう立ち位置がすっかり違ったものになるからだ。
王が自らを朕と呼ばず、ぼくちゃんとでも称していたら、
世界の歴史は大いに変わったろう。
恐怖をもって民衆をひれ伏させるような権力は
生まれなかったかもしれないし、
もしかしたら幼児的な底なしの破壊が行われてしまった
かも知れない。
いずれにせよ、超越的な自称なしに
超越的な自分を演じきることは難しかったに違いない。
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ぼくは子どもが自分のことをおれと呼ぶのが好きではない。
子どもはまずぼくとして自分を形成し、
しかる後におれになるべきで、
たとえ気の置けない仲間の中でおれであっても、
年長者の前では、
やはりぼくであり私であるべきだと思っている。
なぜなら、おれは闊達であり、自由であり、奔放であり、
ときには自分を真摯に見つめる自称だけれども、
自分を支えるものと、
自分を超越するものに対する配慮や畏れを
決定的に欠くものだからだ。
おれから生まれるのは、おれにとどまるおれにすぎない。
ぼくからうまれるぼく、
私から生まれる私、
わたくしから生まれるわたくしに、
出会わないのはもったいない、と思う。