世界一の金持ちのビル・ゲイツ氏が私財の大半を寄付する
と聞いたときにはぶったまげたが、
世界第二の金持ちのウォーレン・バフェット氏が
これまた4兆円あまりを慈善事業に使うと知ってさらに驚き、
その驚きもさめやらぬうちに、
今度はかのジャッキー・チェンが150億円とも言われる
資産の半分を寄付するというニュースが流れて、
もうわたしゃひっくり返ってしまいました。
どうやら「自分が死んでから」という条件らしいが、
それにしてもすげーだろ、これ。
そういえばマイケル・ジャクソンも、
大好きなこどものために多額の寄付をしているとか。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、
後半生を慈善事業すなわちそれまで稼ぎに稼いだ金を
社会のために使い切ることに賭けたが、
ゲイツやバフェットもその伝統にならったかに見える。
もちろん背景には、税金で取られて
訳の分からない使い方をされるよりは、
使い道を自分で決められる慈善事業を選んだ、
なんていう面もあるだろう。
あるいは富の頂点を極めた今、
欲望の対象が尊敬と賞賛を得ることに変わっただけなの
かもしれない。
しかし、それでも、巨万の富を築いた人なんだから、
金に強く執着してきたに違いなく、
だから彼らが金を惜しむ気持ちは、ぼくたちの百万倍も
強いのではないかと思うんだ。
それをぽんっと手放しちゃうんだから、
何にしたってすげーよ、まったく。
アメリカはたしかに苛烈な格差社会だが、
一方ではこんな風に、強者が弱者に慈善を施すということが
ある程度期待されている。
もしかしたら、今度の彼らの行為も、
規模のでかさは別として、
それほど特別なものだとは捉えられていないのかもしれない。
もともとキリスト教では得たお金の十分の一は
神さまのために使うことになっているから、
子どもですら、お小遣いの10パーセントを募金に使う、
なんてことが珍しくないと聞く。
年収一千万を軽く超える人たちが「われわれ庶民は…」と語り、
いつだってひがみ、もらう側に立ちたがるメンタリティとは
ずいぶん違うのだ。
そもそもわが国には、
富める者は社会に応分の還元をすべしという発想がない。
累進課税という形でそうしていると言えるかもしれないが、
そうしているのは国であってわれわれではないから、
お互いが支え合うという思想を育てることにはつながらない。
格差を互酬や再分配で補正するしくみがないという以前に、
第一、寄付を促進する税制すら何もない。
税金として払うか寄付をするかが選べないということは、
他人のため社会のために自分の意志で働きかける道が、
事実上閉ざされてしまっているということにほかならない。
たったこれだけの議論で軽々に結論するのはいけないが、
こういう背景を持たない日本が、
このまま言われるとおりの格差社会になっていくとしたら、
どうにも救いのない状態になるような気がするんだよなー。
「日記」カテゴリーアーカイブ
開店祝いの花
近くに新しい店ができ、
開店祝いの花輪が店先にずらりと並んでいた。
ここ名古屋では、
こうした花輪の花は勝手に持っていってよい
という風習がはびこって、もとい残っている。
今日も近所のおばさんたちが群がって、
抱えきれないくらいの花を持ち去っていた。
どうやら食事をした帰りがけというわけでもなく、
わざわざそのために来たようである。
開店の景気付けだとか、縁起のものだとか言われているが、
おばさんたちの頭にあるのはもちろん
そんな共同体的配慮などではなく、
「タダならもらわなきゃソン」というぎらぎらした
一念だけである。
ぼくはこれを見るたびに、
名古屋に暮らしていることを恥じずにはいられない。
店の中に小学4年生くらいの男の子がいた。
おかあさんとの会話から察するに、
千葉で生まれて横浜で育ったようすである。
やがてこの子が花を持ち去るおばさん達に気がついた。
「おかあさん、おかあさん、どろぼうだよ」
「いや、名古屋ではね」と説明するおかあさん。
ところがこのボウズは納得しない。
店の外のおばさんに聞こえないことをいいことに
「どろぼうだ、どろぼうだ、どろぼうだ」と言い続けてやまない。
それがやがて憎々しげな「ドロボーう」という口調に変わる頃、
ぼくもだんだん腹が立ってきた。
おばさんにではない。このボウズにである。
自分の育った文化と違っているからと言って、
大の大人を泥棒呼ばわりするとは何ごとだ。
それを見ながら咎めないとは、親はいったいどういうつもりだ。
ここではあれが当たり前なのよ、
土地によっていろいろな習慣があるんだね、
と教えてやればいいではないか。
たしかにぼくもこの花の持ち去りは恥ずかしい蛮習だと
思っているが、しかしそれを排斥しようとは思わない。
いくら演歌が嫌いでも人前で演歌を貶めるようなことは
言わないのと同じである。
ひと言いってやろうかと思って振り返ったら、
さっき帰ったはずのおばさんが、ふたたびやってきて
両手いっぱいに花を抱えたところだった。
ああ。
クマダ伝説
むかーし、同級生にクマダという子がいた。
クマダは勉強はそこそこできたが、
どちらかというとぼんやりしたヤツだった。
ある日クマダがメガネを外して机の上に置いた。
顔がでかすぎるのか、
メガネは、すっかりつるが広がっていた。
みな口々に、直した方がよいと忠告した。
クマダはしかし、
「おれ、買ったときからいじってない」
だから広がっているはずはない、と言い張った。
毎日このメガネを使っているが、まったく変わったようには
見えない。毎日見ているおれが言うんだから間違いない。
クマダはそう思ったのだろう。
ひと目でそれとわかるメガネのゆがみを、
かたくなに認めようとしなかった。
時計の針がそうであるように、緩やかな動きというものは
動きとして見ることはできない。
それでも絶え間ない繰り返しは、
いつしか大きな変化を生むものである。
ちょうど雨だれが石を穿つように。
なにせ遠い昔のことである。
クマダの顔もぼんやりとした印象しか残っていない。
しかしどういうわけかあのときの、
なんてこいつはアホなんだ、という驚きだけは
忘れられない。
マック退院
かれこれ3週間近く入院していたマックが、きのう退院した。
ロジックボードを交換し、ハードディスクも入れ替えたので、
すっかり別人のようである。
いろいろ記憶をなくしてしまっているために、
ちょっと不便もあるけれど、
いつの間にやら溜まってしまったゴミのようなデータがすっきり
片付いて、まあよかった。
それにしても、先月買った新品のノートパソコンが7万円弱だったのに、
この修理とハードディスクの交換には8万円以上かかってしまった。
さすがに泣いた。
それならいっそ新品を買った方がいい、という人もいるけれど、
それは違う。
病気になったペットを捨てて、新しい犬を買えるだろうか。
ってなわけで、わが家には、新旧あわせて三匹のマックがいます。
素粒子を笑え
金曜日の朝日新聞夕刊の「素粒子」から。
本欄は、朝日によれば「寸鉄人を刺す」「人気」コラム、
だそうである。
「戦いすんで夜が明けて、日本の球蹴り狂想曲終わる。
あんな、へなへなシュートじゃ、仕方ない」
え、これが朝日一面の主張ですか。
■
おりしも桐生悠々が信濃毎日新聞に書いた
「関東防空大演習を嗤う」を読む。
桐生は戦時中、
東京上空に戦闘機を飛ばして防空演習をしたことを受け、
本土に敵機が襲来したら首都は灰燼に帰すほかないのだから、
防空演習をするのはまったく無意味、と論じ職を追われた。
彼は後年
「言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。
だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、
苦痛である。
何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに
反して、言わねばならないことを言うのは、
義務の履行だからである。
(略)
しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。
少くとも、損害を招く。
現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、
軍部のために、私の生活権を奪われた。」と述べている。
■
ジャーナリズムとは、こういうものを言う。
そうそう、朝日新聞のみなさんも、
たしか「ジャーナリズム宣言」なんて言っていましたよね。
ぷぷぷ。
はやりのよいこと
思い起こせば数年前、
「ヘブンズパスポート」というのがはやったことがある。
パスポートを模した冊子に願い事を記し、
何か「よいこと」をするたびにシールを貼っていき、
シールが百個たまったら願い事がかなう、
というグッズである。
覚えている人もいるだろう。
そこでいう「よいこと」というのはまことに他愛ない
ものだった。
倒れていた自転車を起こしてやった。
席をゆずった。
ごみを拾った
という軽いよいことから、
お菓子を食べずにガマンした。
お母さんに呼ばれて返事をした。
宿題をきちんとやった。
というどこがよいことまで、
要するに行動を意識的にコントロールできたらなんでも
オッケーだったようだ。
こういう軽さに対しては、皮肉も批判もいくらでも言えようが、
ともあれこいつがはやっていたころ、
中高生の女の子たちは、自分にできる小さなよいことを考えて、
どんどん実行しようとしていたことは間違いない。
中高生というのは、従順な子どもを脱したい年代だから、
ちょっと悪めの子になってみたいと思いがちなのに、
よくもまあ、あんなことがはやったものだと思う。
正直に言うと、素朴な善意をあまりにも屈託なく表明されると、
どこか小恥ずかしいような、いや、いっそうすら寒いような
居心地の悪さを感じてしまうのだけれど、それでも
世の中に自分と友達しかいないような傍若無人振りを見るよりは、
はるかによいに決まっている。
よいこと系の流行としてひところはやったホワイトバンドも
すっかり鳴りをひそめてしまった。
また何か出てこないかなあ。
毎年のことながら
数日前に梅雨入りが宣言されてから、よい天気が続いている。
昔に比べ天気予報はとてもよく当たるようになってきたが、
どういうわけかこれだけは、見事に外れる。
もともと梅雨入り宣言というのが何のためにされるものなのか
よくわからない。
梅雨入りしましたと言われても、ああそうね、と思うだけ
だし、ここんところよく雨が降っています、なんてことは、
気象庁に言われなくてもわかることだし、
6月は雨の季節だということぐらい、第一だれでも知っている。
「桜の開花日」のような季節の便りとして、梅雨入りを
心待ちにする人がいるってことかしらん。
謎だ。
芸術はきびしい
芸術選奨なんやら賞を受賞したワダ先生の作品に、
盗作の嫌疑がかけられている。
まったく失礼な話である。
盗作というのは、誰かの作品から作品を構成する
重要な要素である構図やモチーフといったものの
一部をいただいちゃうことを言うのである。
そういう視点から冷静に見れば、
ワダ先生の一連の作品がそれに当たらないことは
明らかだ。
ああいうのは、盗作といわず、模写という。
盗作にもならないろくでもない模写が、
芸術選奨文部科学大臣賞なんていう立派な賞を
もらえちゃったという事件は、
画家のモラルがどうこうというよりも、
世界の隅々にまで張りめぐらされているはずの情報の網が、
実はスッカスカだったということを示した点で、
とても興味深いものだった。
それにしても、ゲイジュツの世界ってのはきびしい。
ほかの学問なんかだったら、海外の研究をそのまんま紹介
するだけで学者さんとして認めてもらえるわけだけど、
それと同じことをしたら盗作って言われちゃうんだもんな。
自動車のライトがそろって意地悪そうな吊り目になったのは、
みんなが誰かのデザインを「取り入れた」からに違いないが、
これを盗作という人はいないし、
悲恋を描いた小説にやたらと白血病が登場したり、
日本語の歌を誰かの真似して巻き舌で歌ったりしても、
盗作とは見なされない
そういえばゴッホが浮世絵を真似して描いた作品があったが、
あれを盗作と言う人もいない。
誰かのオリジナルな着想をちゃっかりいただいちゃうという点では、
こういうものも盗作と変わりないように思うんだが、
なかなか線引きは難しいようである。
で、ぼくなりにいろいろ考えてみた結果、
「作品を見比べて腹が立ったら盗作」
という基準に思い至った。
なかなかよくない?
マック入院
予期していたとおり、パソコンが壊れてしまいました。
ハードディスクを交換しても駄目で、そのまま入院です。
というわけで、現在代わりのパソコンで作業していますが、
メールを設定する時間がないため、きょうは受信できません。
どうかご了承ください。
ついでと言っては何ですが、ひとつご同情もお願いします。
マックあやうし
仕事でもプライベートでもバリバリ使っている愛機
PowerBookが瀕死である。
動きは遅いし、しょっちゅう止まっちゃうし、
今日はついに起動できなくなること数回、
あわててバックアップを取ってXデーの備えをした。
とりあえずどうしても必要なものだけを、と思ったら、
いやあ、
どうしても必要なものってのは案外少ないものだねえ。
パソコンの中に散乱しているものの大半は、
まあ言ってみれば思い出であって、
今現在を支えるものではない。
なるほど。