肩がこりこり。

どういうわけか、肩こりがひどい。
腕が上がらないし、頭痛までしてきて、憂鬱である。
体の不調を自慢するようになっちゃおしまいだが、
まったく何とかならないものか。
さて肩がこるのは日本人だけ、
という話を聞いたことがあるだろうか。
日本人には猫背が多いとか、肩の筋肉が足りないとか、
まことしやかにその原因が説かれたりもしているようだが、
どうもにわかには信じがたい。
世界はひとつ人類はみな兄弟であるという事実に鑑みて、
日本人だけ肩がこる特殊な身体構造をしているなんて、
非科学的だと思わないか。
彼らは論理的に語ることを訓練されているから、
僧帽筋と肩を厳密に区別し、わたしのこの痛みは、
肩ではなく僧帽筋のそれである、と思って答えた
のかもしれない。
あるいは、言語が未発達で「凝る」にあたる繊細な
語彙を持っていないのかもしれない。
それとも揃いもそろってウソつきで、
ほんとは凝っているくせに凝っていないと言い張って
いる可能性も捨てきれない。
どの仮説を採るにせよ、肩が凝らない、というよりは、
まだマシなんじゃなかろうか。
本邦には「瞳を閉じて」なんていう曲があるが、
外国人にどんなとき瞳を閉じるか聞いてみるといい。
彼らは驚倒し、バケモノのようにあなたを見るはずだ。
おれたちは瞳を閉じたりはしない、
まぶたなら閉じるけど、というわけである。
肩こりもおそらくはこの類なんだろう。
日本人はとかく自分たちを特殊だと思いたがる。
しかし、あなただけは特別、という話にろくなものはない。
気をつけましょう。

ともだかさん、こんにちは

昼寝をしたら夢を見た。
著名ななんやら研究家の友高(ともだか)さんを訪ねた。
お名前が奇しくもうちの家紋と同じというご縁で、
今日の訪問と相なったのだ。
でも、話をしているうちに気がついてしまった。
うちの家紋は「おもだか」だ。
ちがうじゃーん。
言い出せないうちに目が覚めた。

ちにくなはなし

Dという有名な国語の先生がいる。
著作が多いこともあって、
受験生の間ではいちばん有名な先生のひとりだろう。
いつだったか、この人のCD講義を聞いてみたら、
「こうして学んだことが諸君の「ちにく」となる」なんて
ことを語っていて、驚いたことがある。
言うまでもなくこれは「血肉」のことだ。
誰でもその程度の思い違いはあるものだから、
そんなことで鬼のヘソでも取ったように騒ぐつもりはない。
(首だってば)
幕間を「まくま」、思惑を「しわく」と読んでしまうくらいの
ことは、珍しくもなかろう。
ここで言いたいのは、
なーんだDなんて有名だけどダメダメじゃん、ということではない。
そんな負け犬の無駄吠え(遠吠えだってば)のようなことではなく、
誰に限らず、
生まれたときから国語が得意で仕方がなかった、なんていう人は、
おそらく国語の勉強なんてしたことがないだろうなあ、
ということである。
だからもしかしたら、国語が得意だった人ほど、
じつはこういう「知っているつもりで間違っている言葉」が
たくさんあるんじゃないか。
ぼくも大学入試のときですら、
おそらく国語は1時間も勉強しなかったクチだが、
得意と思っていたからこそ、
とてもここには書けないような恥ずかしい間違いを
たくさんしてきたものである。
大学生になるまで「節」という字は竹かんむりの下に
「郎」ようなテンを付けると思っていたし、
版図を「はんず」と読んでいたし、
「母」の書き順も違っていたし、
カタカナの「ヲ」の書き方なんて、ついこの間まで
知らなかった。
こういうことは漢字の勉強をしていれば、
おそらく確実に避けられることである。
つまりこれは、
おれは国語が得意だもんね、なんて慢心している人よりも、
苦手と思ってこつこつ勉強している人の方が、
やがては正しい言葉を使えるようになる可能性が高い、
ということである。
アリとキリギリス(ウサギとカメだっでば)の教訓は、
いまだに古びてはいないのだ。
おまけ:
血肉(けつにく)、幕間(まくあい)、思惑(おもわく)、
版図(はんと)、ヲの書き順/よこよこななめ。

怪しい者じゃありませんってば

寒いのは苦手だが、嫌いではない。
歩くのは寒いが、苦手ではない。
今日もうんと遠回りをして歩いてみた。
寒かったんだけど。
自宅から教室までは真面目に歩けば15分で着くはずなのに、
近ごろは1時間近くかかることもある。
ちょっと遠回りするつもりでも、
知らない道ではほぼ確実に迷うので、
ちょっとでは済まなくなることがあるのだ。
もう十年以上通っている道で迷うというのは、驚くべきことである。
それも徒歩によるごく限られた範囲で迷えるのだから、
すでに異能といってよい。
そうそうずいぶん前になるが、
ふらふら歩き回っているうちに
雑木林の奥に迷い込んでしまったことがある。
方向音痴の者にとっては、
雑木林と樹海の違いは、ただ規模の違いでしかない。
冗談ではなく、ほんとうに出られないような気がした。
冬なのに汗だくになったから、けっこう本気で焦っていたのだ。
そのうちにどこをどう歩いたのか、
ようやく林の向こうが透けて見えた。
わーい、と喜んでがさがさ藪をかき分けて出てみたら、
そこに広がっていたのはユーカリの畑だった。へ?
夢の話ではない。
ここ名古屋の動物園にはコアラ様がお住まいなのである。
ユーカリの葉っぱは八百屋じゃ買えないから、
栽培していることに何の不思議もない。
しかしまあ、あれね。
ユーカリ畑があるなんて予想もしていなかったから、驚いたです。
コアラちゃん用だということくらいは分かるけど、
いかにも唐突な感じじゃないですか。
なーんでこんなところに、と思ったが、
藪の中からがさがさと、
コートを手にして汗かいたおっさんが出てくる方が、
よっぽど場違いってもんだよなー。

ひさびさに、夢の話

いやな夢を続けて見た。
きのうのは、大学の先輩と二人きりで合宿所にいる夢。
別に親しい人ではなかったが、
夢の中でもやっぱり親しくなくて、
ひと言二言近況を尋ね合った後は、きまずい沈黙が続く、
というだけの夢だった。
今日の夢はもっとひどい。
どういうわけか、
ぼくはパンツ姿で旅館の中や街路を歩いているのだ。
もちろんすっごく恥ずかしいから
人目にふれないように、
物陰から物陰を縫うように隠れていたのだが、
いったい何をしていたのか。
途中で風呂に入って、パンツだけをはいて外に出たときは、
いや、ほんとうに恥ずかしかった。

今度は納豆

納豆がダイエットに効く、というテレビ番組の「情報」が
まるっきりの嘘八百だったことが判明して、
これまた騒ぎになっている。
「毎日食べていたのに体重が減らずおかしいと思っていた」
「番組を信じていたのに、だまされた」
なんて怒っているみなさん、
そりゃ、信じる方が間違っているってもんでしょ。
健康雑誌をごらんなさい。
先月はこんにゃくが抜群の効果を示していたはずなのに、
早々と姿を消し、続いて今月はリンゴ酢の驚きのパワーが
明らかになったりするではないですか。
テレビショッピングあたりでも、
なんやらダイエットとか、かんやらダイエットとか、
あれもこれもと目白押しなのに、
わが日本国民がそろって痩せ始めた、なんて話は
寡聞にして耳にしない。
みんな分かっていることなのだ。
ところで、
納豆は大豆を腐らせて作っているんだから、
ほんとうは「豆腐」って書いたはずだ、という話、
納豆だけに、やっぱりこれもウソなんでしょうか。

不二家のこととか

賞味期限切れの原料を使っていたということで、
不二家がきつい批判を浴びている。
このまま行くと、倒産しかねないような状況である。
このたび不二家のしたことが
業界の常識に照らしてどれほど度外れなのか、
食品メーカーの人の本音を聞きたいところだが、
素人の直観だけで言えば、
当たり前のことをしていただけなのに、
ことさらに騒ぎ立てられて可哀想に、くらいに思われて
いるのではないだろうか。
ぼくは大学生の時に大手製パン会社の工場でアルバイトをした
ことがある。
あんドーナツやカレーパンを揚げる油が臭いのにも閉口したが、
コンベアから落ちたパンを拾い集めて「お徳用袋」に詰めるように
言われたときには驚いた。
アルバイトはごく短いものだったが、
それからしばらくパンは食べられなかった。
お祭りで綿菓子を売ったこともある。
倉庫から引っ張り出してきた綿菓子の機械を、
真っ黒な雑巾でこすって、準備完了。
暗がりの中で売っていたからよく分からなかったが、
あの綿菓子は、安全だったかどうかというよりも、
ちゃんと白かったかどうかもやや怪しい。
そんなことを思い出すと、
腹をこわした程度の被害者もいないのに、
不二家がここまで叩かれるのはちょっと不自然だと思う。
みんなやっている、
なんてことが理由にならないことは知っているが、
不二家だけじゃない、という事実を忘れているのも
また公平とは言えないだろう。
ざまーみろ、と言いたいだけで、
何千人もの生活をおびやかしてよいなんて、
そんな理屈があるものか。

成人式

お久しぶりです。
「三日坊主を恐れない」というCMコピーに
励まされて戻ってまいりました。
ってなわけで、今日は成人の日です。
成人の日というのは1月15日とばかり思っていましたが、
いつの間にか変わっていたのね。
冷たい小雨がぱらつく中、小学校の門の前には
晴れ着を着た美しい娘さん方と、
せいぜいスーツのぱっとしないヤロウどもがわんさか集まっていて、
なかなかよい眺めでした。
天下の公道を占拠されたような具合だったのに、
かえってその賑わいが好ましく思えたのは、
こちらにまだ正月の気分が残っていたためでしょうか。
テレビで流す「荒れた成人式」がどこまで
ほんとうなのかは知りませんが、
色鮮やかな振り袖を着て
華やいだ空気に顔を輝かせている彼女たちを間近に見ると、
やっぱりこうしたお祝いはいいなあ、と思います。
きのうの雪のなごりのためか、
少し弾んだ白い息が何ともいえず美しく、
思わずはっとしてしまいました。
おしまい。

悪いのは高校なのかね?

昨日取り上げた「履修させないでごまかしちゃった事件」
について書かれたものを読んでみると、
そんなことする高校はけしからん、
という論調が圧倒的に多い。
新聞は、社会に役立つ人材を育てるための指針を
無視した責任は大きい、なんて書いているし、
学生が世界史的事件についてこれほど無知な理由が
分かった、という大学の先生もいる。
履修のごまかしが、とくに世界史に目立つからだ。
でも、今よりましであるはずのちょいと昔には、
必修科目は意外なほど少なかった、
という事実を指摘しないのはどういうわけだろう。
たとえば1982年から実施された指導要領では、
社会科の必修科目は「現代社会」1科目しかなかったし、
それ以外の年の指導要領も、
いくつかの科目から選べる選択必修ってな形で
定めてきたものだ。
今のように世界史が必修科目になったのは
平成4年以降、ついこの間のことである。
そういうことを考えあわせると、
そもそも世界史を全員に必修にする必要があるのか、
文科省がそこまで統制しなくちゃいけないのか、
という議論があってもよいと思う。
ぼくとしては、以前は教育を現場に任せようという
大らかな方針が取られていたのに、
近年になって一元的に管理しようという方向に
大きく転換してしまっているこのことが、
いちばんの問題じゃないかと思っている。
だいたい、いくらズルをする学校が多いといっても、
何たって必修なんだから、
昔と比べれば世界史を教える高校はずっと増えているわけだ。
それでも若者の歴史感覚が
それ以降著しく向上したとは聞かないし、
むしろ「世界史的事件についてあまりにも無知」と
まで言われてしまう体たらくなわけだろう。
つまり、必修化の成果はまったく表れていないっ
てことなんだよね。
このように、
何を教えようが試験が終わればきれいに忘れる、と
いうのが標準的な高校生の姿であることは、
今も昔も変わりはないわけで、
にもかかわらずとにかく履修させようっていうのは、
何かちょいとズレているような気がしてならない。
けっきょく、この騒動で見直すべきは、
高等学校のあり方なんかじゃなくて、
むしろこれまですべての教育改革に失敗してきていながら、
なおも現場をコントロールし続けようとする文科省のあり方、
なんじゃないかと思うし、
そもそも世界史を必修にしようと考えたのは、
例によって世界史を教えれば国際理解が進むっていう
素朴な発想なんだろうから、
まずはこっちの方から議論し直してほしいものだよね。

必修なんだからね!

全国の相当数の高校で
文科省が定めた必修科目を教えずにいたことが
問題になっている。
受験に必要のない科目を教えず、
その時間を他の科目の授業に振り替えていたのである。
いかにもありそうな、というか、
やってて当たり前じゃんというのが率直な感想だが、
もちろんここにそんなことを書いたりはしない。
塾の主宰としての良識である。
さて、それはともかく、
いったんことがバレてしまった以上、
当該高校の生徒は必修科目を履修しないかぎり
卒業させるわけにはいかない、という。
そのために高校はこれから70時間もの補習をして、
きちんと卒業要件を満たすってんだから、
なんとも気の毒な話である。
今さら言うまでもなく、
受験を間近に控えた高校3年生にとって、
この70時間はとてつもない障害となる。
受験には何の役にも立たない科目なのだから、
補習をしてもらっても感謝するヤツなどひとりもいない。
おそらくサボる者が続出するし、
ちゃんと出席する生徒だって、
いわゆる内職に精を出すだけだろう。
そんな授業を担当する先生も、これまた面白いはずがない。
すなわち、何とも奇怪なことに、
生徒は喜ばず、先生も喜ばず、
生徒に得はなく、先生にも益はなく、
つまり誰もが嫌で、誰もが無駄だと知っている授業が、
これから延々と行われることになるのだ。
建前はともかく実際には、
そこで学んだ成果が残る可能性はゼロに近いんだから、
誰が見たって時間と労力の浪費というほかない。
じゃ、なんでそんなことをするのかというと、
ひと言でいうと文科省の体面を守るため、だろう。
だって受験生を危地に追い込むことを知りつつ、
それでもルールの遵守を求めるっていうんだから。
ここでは明らかに、
必要な学力教養を身につけさせなかったことでなく、
お上の指示を軽んじた点が問題視されているのだ。
生徒の受験の成否を危険にさらしても、
文科省の指示は履行せねばならないとは、
これはハンパな圧力じゃない。
これほどまでに国家が力を振るうのを見ると、
やっぱり教育は甘い行政サービスなどではないと
再認識させられちゃうわけで。
この際どこか一校くらい、
教育の自治を訴えて、文科省に楯突く高校はないもんかねえ。