近所にマンションが建つことになった。
いつからか反対運動がはじまり、
気がつくとのぼりが建築現場のぐるりを囲んでいる。
ところがこのマンション、はた目には
あんまり迷惑そうな物件に見えないのだ。
三階建の低層だし、
日当たりが問題になる北側には道を隔てて公園があるだけだ。
もちろん正義の確信を持たずに反対運動を
することはないから、
おそらくそこには、日照以外の事情があるには違いない。
しかしどんな事情があるにせよ、
それを知らない部外者には
ただの住民エゴに見えてしまうものである。
外野のぼくには
発言する資格などあるはずもないけど、
この件を離れて一般論で言えば、
そこはみんなの空き地じゃなくて
どっかの会社が数億円で買った土地なんだから、
私たちのために建物を建てないでって言うんだったら、
それなりの負担をするのが筋だという気がする。
何にも犠牲を払わずに人の数億円を捨てさせる、
なんて権利は、さすがに誰にもないだろう。
景観を自分の好みに合わせたいなら、
見渡す限りの土地を買わなくちゃいけない。
ここまで言うのは極論かも知れないけれど、
正常な権利感覚ってのは、
もしろそういうもんじゃないんだろうか。
継続は力だそうです
せっかく何かを始めようと思い立ったのに、
これからかかる手間と時間が先に浮かんでしまって、
結局何もやらずに済ませてしまった、
なんて経験はありませんか。
わたしなどはいつもそれで、
前非を悔悟して涙にくれることや幾たびとも知れません。
あのとき思い立ったことをこつこつやっていれば、
今ごろドイツ語なんぞをぺらぺらしゃべり、
超絶技巧練習曲あたりをぱらぱら弾けて、
心臓移植手術くらいほいほいこなし、
体脂肪率10パーセントのむきむき体型になっていたかも
しれないとか、
毎日単語を十個ずつ覚えていれば、
英和中辞典の一冊くらい覚え終わっていただろうとか、
最初の給料から毎日五百円ずつ貯めていれば、
今ごろわがヘソクリは数百万円に達していただろうとか、
それこそ枚挙にいとまがありません。
まさに継続は力なのであります。
継続は力ということは、何かをするときだけでなく、
何もしないときにも妥当する真理です。
つまり「何もしないこと」を継続していると、
何もしないことが力を発揮して、
何もしないことが習い性となってしまうのです。
恐ろしいですね。
アリストテレスによれば
「自然は真空を嫌う」そうですが、
たしかに何もしないことによってできた空隙は、
ぽっかり空いているわけではなくて、
大したこともないことがその空隙を
何となく埋めてしまうものなので、
無為に過ごしたという自覚もなく、
気がつけば十年も二十年も過ぎてしまった、
なんてことになりがちなのです。
まったく恐ろしいものですね。
今日は疲れているのでこのまま寝ますが、
明日か来週かそのうちに、
もし時間があったら、
今度こそ心を入れ替えてがんばろうと思います。
ほんとです。
一泊二日より安い
モーツァルト十時間百曲入り三千円、というすごいCDを見つけた。
買ってからアマゾンなら2400円だとか、
HMVでは40枚組4千円台のモーツァルトがあるなんて事実を知って
やや喜びも減じたが、ここまで安ければまず文句はない。
で、近ごろはずーとそいつを聴いている。
この手の音楽を聴いていたのは中学生のころだから、ざっと30年ぶりか。
当時はFMファンだのFMレコパルだの週刊FMだのといった雑誌があり、
番組表をつぶさにチェックして、片っ端から録音していたもんである。
わざわざレコードコンサートなるものにも足を運んだり、
子ども向けの安い演奏会があるとひとりで出かけたりもした。
思えば、ずいぶんな背伸びだが、
よい趣味や高い教養なるものに憧れる少年時代というのも、
悪いもんじゃないだろう。
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」とは
小林秀雄の言である。
音楽に限らず芸術というものは、鑑賞する人が内にもつ美と共鳴して
はじめて本当の姿をあらわすものらしい。
いつか彼のように聴けたら、と願わずにはいられないが、
三千円でそれは、さすがに図々しいよなあ。
歯が抜ける夢
よく歯の抜ける夢を見る。
前歯がぼろぼろぼろ、とまとめて抜けるのだ。
自然に抜け落ちるわけではない。
何かを食べて折れてしまうわけでもない。
そのままにしておけば、無事かもしれないものを、
ぐにぐに自分で抜いてしまうのである。
全然痛くないし、
むしろごそっと取れる感じが気持ちよい。
歯茎を舌でさわった感じとか、血の味とか、
そんなものまでリアルに覚えている。
もっともこれは、実際に歯が抜けたときの記憶を
転用しているだけなんだろうけど。
指がぼろぼろ落ちてしまう夢も見る。
でも夢分析なんかするつもりはない。
自分の心のありさまを、
どうして人に決めてもらう必要があるだろう。
ありがとうと言ってみな
名古屋弁のイントネーションは独特である。
これは名古屋の言葉に限ったことではないが、
土地の言葉のイントネーションというのは、
まずヨソの人には真似ができない。
テレビドラマで使われる方言もどきに、
ちがうちがうと叫んだ経験のある人は多いだろう。
「ありがとう」のイントネーションは、
標準語では「熊五郎」と同じ、
関西ではしばしば「この野郎」と同じだが、
名古屋のそれは韓国料理の「サムゲタン」に近い。
今の子どもはどうだか知らないが、ぼくは小学生の頃、
自分の「ありがとう」が訛っているなんて思ってもみなかった。
小学校の6年生まで、テレビなどで聞く「ありがとう」は
たとえば「きみ、やめたまえ」と同じく
現実には使われない放送用の擬似言語だと信じ込んでいたし、
担任のヤマダ先生に
「ありがとうは、ありがとうではなくて、ありがとうと言うのよ」
と教えられたのだけど、
何度か練習しても、ありがとうみたいな言い方しかできず、
ついには「そんなのできるわけがない」と
言い返してしまったくらいである。
今では、とくにここ名東区では転勤族が多いせいもあって、
名古屋弁を使う人が本当に少なくなった。
ぼく自身ずっと昔に方言を捨ててしまったひとりだけれど、
ちょっとだけ、子どものころの
「ありがとう」を言えなかった昔を懐かしく思うときもある。
寺山修二の
「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」
という歌になると、
大学生の頃をリアルに思い出してさすがにつらいんだけどさ。
こわれるこわれる
誰もが気づいていることかもしれないが、
クルマだの電化製品だのといった耐久消費財は、
きまって同時に壊れるものである。
ウチの場合は、食器棚と流し台の開き戸が取れ、
食卓の椅子はぬきが外れてガタガタする。
洗濯機は唸りを上げ、掃除機は異臭を放ち、
インターホンはぷつぷつ途切れ、
パソコンはいきなり電源が落ちる。
教室の蛍光灯は管を替えてもちらちらするし、
クルマに乗ったら、
サイドブレーキのワイヤーがぷちんと切れた。
こう次々に壊れるのを見ると、もしかしてこいつらは
買い換え需要を見越してわざわざ壊れるように
設計されているのではないかとか、
あるいはつくも神のように物にいのちが宿っていて、
細胞におけるアポトーシスさながらに自壊作用を
起こしているとか、
一種のシンクロニシティによる連鎖反応が起きているとか、
そんなさまざまな憶測が浮かんでは消える。
もちろん、怪奇現象でもあるまいし、
いろいろなものが同時にあるいは連続して壊れる、
なんてことが実際に起こっているとは考えにくい。
そう感じるのは、多分に気のせいで、
ただこれまで意識もせずにやり過ごしてきたことを、
何かのきっかけでにわかに強く意識するようになった、
というだけのことなのだろう。
それでもね、
気のせいだろうが何だろうが、
修理するのにしっかりお金がかかるという方は、
間違いのない現実なんだよなー。
浜の真砂は尽きるとも世に物いりの種は尽きまじ、
ってか。めそめそ。
口内炎によせて
非常に個人的なことなのですが、
口内炎が4箇所もできてしまって憂鬱です。
こんなことは四十有余年生きてきた中でも記憶がなく、
いや、記憶がないこと自体はいつものことなんですが、
とにかく痛いししゃべりにくいし気になるしで、
もう頭の中の半分くらい、
つまり現在のわたしにとっての世界の半分くらいは
口内炎でいっぱいなのですが、
それなのに、わたし以外のすべての人にとって、
わたしのこの口内炎は他人ごとなんですよね。
こんなはっきりした実感を
わたし以外の誰も感じていないだなんて、
何だか驚きです。
みなさんが平気でいらっしゃるということが、
にわかには信じられない気持ちです。
まったく世界というものは
わたしとわたし以外のもので構成されている
ということが痛いほど、
いや本当に痛いんですが、
痛いほど実感できてしまうわけで、
こうした本源的な孤独の中でですね、
口内炎という内部と外部の狭間のようなところで、
わたしの一部でありながら
わたしではない異物として存在するこいつと
サシで向かい合うという経験はですね、
自己の中に他者を見、
他者の中に自己を見る瞬間の、
そのあわいにおける存在の明滅がですね、
あるかなきかの統一の可能性を暗示している
ということをですね、
真面目に読んでいる人には悪いんですが
このあたりははまったく意味のない叙述なわけで、
こんなことを書いてしまうのは、
みな口内炎のせいであることは言うまでもなく、
とすれば口内炎はわたしの行動を、
いやもしかしたら
わたしの人格そのものを決定づける力を持って
いるわけで、
それはすなわち今やわたしの意思や思考や感情は
その相当の部分が口内炎の支配下にあり、
わたしはわたしでありながらわたしではない
まるでゾンビのような存在に成り下がってしまった
ということになるのでしょうか。
わたしはこのちっぽけな口内炎に屈し、
かのものに操られるまま生きていくしか
ないのでしょうか。
ああ無念です。残念です。
さようなら、わたしの理性、
さようなら、わたしであったわたし。
おおこうして、ひらがなで重ねて書くと、
わたしはまるでたわしのようです。
わたしたわしわたしたわたしか。
私、タワシ渡したわ、確か。
おお、なかなかいいじゃないですか。
ほとんどゲシュタルト崩壊ですね。
これもみな口内炎のせいです。
ああ、ああ、口内炎め、この、口内炎め。
Google Earthふたたび
そうですか、Google Earthって、
ずいぶん有名なサービスだったんですね。
毎日パソコンを触っているのに、
どうしてわたしは知らなかったんでしょう。
いつものように、
マックだからどうせ見られない、
なんて思っていたんでしょうかね。
それはともかく。
見られて困る所にはちゃんと雲がかかっている、
という話には驚きました。
というか、安心しました。
情報統制と考えると面白くありませんが、
節度ある情報公開と思えば、むしろホッとする感じです。
だって、稼ぎたい一心の民間会社が、
国家の熟考された政策を何ら考慮せず、
軍事機密を含んだ情報をほいほい公開してしまうようなことが
あったとしたら、
それは情報が統制されたり言論が抑圧されたりすることよりも、
はるかに危険な事態ですものね。
いやあ、知らなかったなあ。
おもしろいなあ。
またいろいろ教えてくださいね。
Google Earth
Google Earthをご存じだろうか。
世界中の航空写真が無料で見られるという
信じられないようなサービスである。
それも生半可なものではない。
きのうから幾度となくのぞき、
そのたびに驚かないではいられない。
ぼくはこれで平壌のくすんだ町並みを見た。
モスクワで路肩に斜めに駐車しているクルマを見た。
デンバーにはサンルーフのついた車が多いことを知った。
ウチのアパートの駐車場に赤いクルマが一台しかないことも分かった。
これはすでに、人間が踏み込んではいけない領域ではないのか。
エンターテイメントが国家をはるかに見下ろしているような
このすさまじい「情報化」に、
ある種の暴力性を感じてしまうのは考えすぎだろうか。
ひさしぶり
ひさしぶりの更新です。
もうひと月も経ってしまいました。
あんなに暑かった夏の日も過ぎてしまえば懐かしく、
日ごと深まる秋の暮れ、肌にしみいる寒風に、
木立の枝に透ける日の、ゆれる葉陰に落つる影、
とよはた雲の山ぎわに、秋が来たきたどんじゃらほい、
なんてでまかせの歌謡までが口をつく、
今日このごろでございます。
さて、久しぶりと言えば、きのうは3年ぶりに、
友人の主催する野外ライブに出かけてきました。
会場は標高五百メートルほどの山の上。
日差しはとても強かったのですが、
日陰はひんやりとして気持ちよく、
遊びに行ったんだか昼寝に行ったんだか
分からないような、
まあのんびりした一日を過ごしてきました。
いや初秋の森というのは、
どうしてあんなに懐かしいんでしょうね。
これからぼちぼち更新しますので、
ときどきのぞいてやってくださいまし。