講談社青い鳥文庫には、良心的な作品が多い。
古典的な名作や、スタンダードとでもいうべきものを、
小中学生にも読みやすい編集で提供してくれている。
ところが中には、信じられないくらいひどい作品がある。
先日目にした「坊っちゃん」がそれだ。
夏目漱石の「坊っちゃん」と言えば、
夏目漱石の「坊っちゃん」しかないに決まっているが、
その本は違った。
なんとオリジナルの文章を、
今の子どもには分かりにくいだろうという「配慮」から、
ところどころ(分からない程度に)書き直してあるのだ。
今「坊っちゃん」を読む意義があるとすれば、
それは何より明治時代の文章を味わい、
古い日本語をなつかしく継承するところにあると思われるが、
本書の意図はそこにはない。
なんせ子どもを名文に導くのではなく、
名文を子どものレベルに引き下ろしているのである。
直しがほんのちょっとなのは、
原文の素晴らしさをそこなわないように、
ということなのだろうが、このほんのちょっとが耐え難い。
どうせなら、
ひと目でそれと分かるほど直してしまえばよいのだ。
そうすれば誰もそれを「漱石の作品」とは思わない。
書き直したところに注もないから、
この本を読み終えた人の大半は、
リライトされていることに気づかないだろう。
すなわち、
あやまって本書を与えられた子どもたちは、
本書のつぎはぎされた妙ちくりんな文章を、
漱石のものだと疑わず読むことになるわけだ。
他の本との差別化を図りたいのは分かるが、
これはいけない。
はっきりと、「原作/夏目漱石、平成訳/福田清人」
と書かなくちゃ。
みなさん、類似品にはくれぐれもご注意くださいね。
何の気なしに買ったけど
「志賀直哉はなぜ名文か」という本には
ちょっとくらくらきた。
「日本語大シソーラス」を編纂した山口翼が、
志賀直哉のすごい文章を精査し、拾い上げ、分類し、
簡単な解説とともに並べて見せてくれている。
すごい文章、なんていうとまるで齋藤孝を真似している
みたいでイヤなのだが、
だって実際、改めてみると、志賀直哉って人はすごいのだ。
ぼくが志賀直哉を読んでいたのは小学生の頃だから、
子どもが知らない人に寿司を食わせてもらうとか、
蜂がだんだん死んでいくとか、
清兵衛くんはひょうたんが大好きだとか、
そんな話のどこが面白いのかまったく分からなかった。
ずっと経ってからも、
志賀直哉自身が朗読している「暗夜行路」を聞いて、
つっかえつっかえ棒読みしているさまを笑ったりするくらいで、
まともに読み返す気持ちになったこともない。
ところがねえ。
志賀直哉の文章は、ほんとうにすごいのだ。
短編小説の神様、なんて言われる構成の妙は知らないが、
こと表現に関しては、まさに名人芸だと思わずにはいられない。
もっともそうした達意の表現であっても、
自分で小説を読むだけならおそらく何気なく読み過ごして
しまうだろう。
山口氏が丁寧に拾い上げ、額に入れて見せてくれたために
はじめて気がつくすごさである。
「浮かれた気持ちを不意に叩かれた妻は
調子のとれない不安な顔をして、脇へ来て座った」
なんて、
気取りや工夫の跡さえ見えない書き方だけれど、
そのままの情景がありありと浮かんでくるじゃないか。
もしかしたら志賀直哉って、
今でもまだまだ読まなきゃいけない作家なのかも知れない。
座ったままで、君が代
東京の公立高校の卒業式で
君が代「不起立」を呼びかけて式を妨害した人がいた。
彼は定年までその高校で教鞭を執った元先生だったが、
裁判で威力業務妨害罪に問われ、ついに今週、
罰金刑を言い渡された、という。
どうよ、これ。
天皇の御代がいつまでも続きますように、
なんて歌をオレは国歌とは認めん、という主張は、
分からないでもない。
オレが正しいと信じていることは正しいに決まっているし、
その正しいことを貫き通す行為はこれまた正しい、
と信じる気持ちも、この際分かってやっていい。
しかし、公立高校で定年まで教鞭を執った先生が、
お世話になった東京都やお国に反旗をひるがえすってのは、
やっぱりおかしいのではないか。
なにしろこの人の人生は、公立高校の教師としての禄を食む
ことで成り立っていたのである。
それほど不満があったなら、さっさと高校を辞め、
私塾でも何でも開けばよかったではないか。
いや、そうではない。
抗議をしたい気持ちを強く持ちながら、
現職の教師という立場に鑑みて、ずっと抑えてきたのだ、
定年を迎えて公務員としての立場を離れて
はじめて自らの信念に基づいた行動に出たのだから、
筋が通っているじゃないか、
と考える人もいるかもしれない。
うーん、難しいねえ。
ただ、
ウソかホントかは知らないが、
学生運動が盛んだった頃、
「革命の理想を掲げる以上、国の庇護の元で勉強する
わけにはいかない」と、
あえて私大に進んだ連中がいたという。
こういう馬鹿ないさぎよさが、ぼくは好きだ。
知らなかった
みなさんご存じでしたか。
歩行者は信号を守らないといけないんですよ。
違反すると、2万円以下の罰金なんですって。
びっくりするじゃありませんか。
わたしは今日まで、
パトカーが止まっているその目の前でも堂々と
信号無視をしていて、
「はい、信号赤ですよ!!」とかマイクで言われちゃっても、
ふーん、歩行者免許なんかないんだもんね、
減点だってないんだもんね、と思ってヘーキだったのですが、
あれはとんでもないことだったのですね。
別に悪事を尽くし立派な不良になろうとしていたわけではなく、
ただ法律で守ってもらわなくても、
自分の安全くらい自分で守るんだからよけいな気遣いはいらない、
というだけの気持ちでしたが、
そうした歩行の自由がなぜ許されないのか、
わたしには理解ができません。
赤信号で渡るときの慎重さは、
青信号を気楽に渡る時とは比べものになりません。
何度も左右を確認し、右を見ている間に左から来るかも、
いやこうして左を見ているうちに右から来ているかもしれない、
という緊張は、いちいちご説明するにも及びますまい。
赤で渡る以上、はねられても当然自分のせいという意識が
ありますから、ぼんやり信号に従って渡るよりも、
はるかに安全コンシャスな状態であることは間違いありません。
ってなことを考えると、
明らかに「本人がいいって言ってるならいいじゃん」という
レベルの問題のように思われますが、
お上が罰金2万円、すなわち今月は小遣いはなし、という
容赦のない厳罰を定めている以上、そこにはなんらかの法理が
あるはずです。
うーん、うーん、うーん、うーん。
そうか!
信号無視して事故に遭って病院に担ぎ込まれたら、医療費がかかる、
つまり健康保険からお金を出さなくてはいけない。
つまり、喫煙者パージが吹き荒れたあの「健康増進法」と同じく、
事故を減らし、もって医療費を削減する、
というのが狙いなのでしょうか。
まさかねー。今度おまわりさんに聞いてみよっと。
取材の申し込み
もしもし、塾長先生でいらっしゃいますか。
わたしども、なんとかジャーナルと申しまして、
銀行等によく置いてあります、アサヒグラフのような感じのですね、
経済誌なのですが、本日はですね、
地域に密着してがんばっておられる学習塾、ということで
ALP様に取材にお伺いしたいと思いまして、
お電話させていただきました。
インタビュアーは、「C学生日記」に出演されている
有名な俳優さん、ご存じかとは思いますが
(ここで一拍タメ)、
何のナニガシさんなんですが、そのC学生日記のナニガシ先生と
教育を語るということでですね、大手さんにはないような、
地域に密着した活動をしていらっしゃる学習塾の中でも、
とくに評判のよいALP様に取材をさせていただけたら、
と思いまして。
ふーん、どうしてウチのことお知りになられたんですか。
それはですね、ニシヤマモトドオリの、ですね、
その地域に密着してがんばっておられるということで、
近所の評判などをですね、やはり大手さんとは違った
教育理念をお持ちということで、そうした学習塾さんを広く
紹介するというのが今回の特集の趣旨でして、
そういうわけで、今週の金曜日土曜日に30分ほど
お時間をいただいて取材をさせていただけないかと思いまして。
おもしろいからしばらく長広舌につき合っていたが、
残念ながらぼくはこの商売を知っている。
それから、西山本通は、ニシヤマモトドオリじゃなくて、
ニシヤマホンドオリね。
20年前はもっと高かった気がするが、
「取材費」は7万円だそうだ。
こういう商売が成り立つということは、
もちろん広告と割り切ってお金を出す人も多いのだろうが、
「自分は取材を受けるに値する」と感じている人が
少なからず存在する、ということなのだろう。
そういう自尊心につけ込むってところがなかなか巧妙である。
世の中にはいろいろ楽しい商売があって、
頼んでもいない雑誌を送りつけ「年間購読料48000円」なんて
請求をしてきたり、
頼んでもいない雑誌を送っても来ないで、請求書だけを送ってきたり、
タウンページそっくりの様式で、
さもそれらしい請求書が送られてきたりもするのだが、
そういう商売は、
「誰かが発注したのかなあ」と疑いながら払っちゃうこと、
すなわち「うっかり」を期待しているだけだから、どこか
とぼけた可愛げがあるが、
取材を装っておじさんの「自尊心」につけこむってのは、
少々それとは違っている。
人としての弱みを狙い撃つのはさすがにずるい。
デジカメの入院
デジカメを2台、修理に出した。
今となっては珍しい200万画素の旧機種である。
いずれも3年くらい前に中古で買った物で、
安いメモリーカードでたくさん撮れるから、
けっこう重宝している。
症状は素人目にみても重症である。
どちらも二千円や三千円で直るとは思えない。
CCDやらをごっそり変えると2万円くらいかかるという
ウワサも聞いた。
一方、同じ機種をネットオークションで探すと
ざっと5千円ってとこらしい。
さて、2万円で直すのと、5千円で買い直すのと、
どちらがもったいないのだろう。
実のところ、直して使うというのが、
今日ではもっともお金がかかるのだ。
なんてことを思っているうちに、電器屋さんから
連絡があった。
2台ともCCDを取り替えました、とのこと。
げげー、やっぱり。
どきどきどきどき。いくらだったんだろう。
相当の出費を覚悟したが、
なーんと意外なことに2台ともタダだという。
ほー。
もしやこれは、モノは捨てずに大事にしなさい、
というお告げなのか。ああ、ありがたい。
雨の日にガンガン使ってずぶ濡れにしただとか、
デジカメを入れたままカバンを投げたとか、
そんな淡い思い出とともに、
この教えは深く胸にしまっておこう、
と思ったことであった。
こりゃひどい。
フジテレビが何日か前に放映した「ダビンチコード」の
スペシャル番組を観た。
ひどい番組だった。
そう言えば小学生が、モナリザって誰だか知ってる?
なんて訊いてきたが、出所はここだったか。
映画や小説は、エンターテイメントの中に荒唐無稽な風説が
織り込まれているだけだから害は少ないが、
このテレビ番組のように「暗号」やら「謎」そのものだけを
取り上げるとなると、話はまったく違ってくる。
どんな馬鹿げた話でも、2時間もかけて繰り返されると、
何だか根拠があるような気がしてくるものだ。
プロパガンダの真骨頂である。
大人ですら真に受けかねないのだから、
子どもだったらひとたまりもないだろう。
子どもは一般に時間の感覚が非常に粗いので、
この番組を観た子の相当の割合は、
レオナルド・ダ・ヴィンチとイエス・キリストを
だいたい同じ時代の人、と感じたはずだ。
言うまでもないことだが、
ダ・ヴィンチはイエスよりも1500年も後の時代の人である。
今のように聖書学が発達しているわけでもない時代に、
1500年前の外国のことを想像して描くというのは
どういうことか。
それはたとえば、今のヨーロッパの人が聖徳太子より
もっと前の日本を想像して描くようなものだから、
いくら素晴らしい芸術であっても、
そうやってできた作品が「事実の記録」なんてことは
ありえない。
山海経に描かれているからといって、
むかしの中国にはこんな妖怪がうようよしていた、
という推論が成り立たないのと同じことだ。
こんな当たり前のことすら忘れさせてしまうんだから、
テレビもなかなかおそろしい。
国民を馬鹿にする(馬鹿・にする)番組ってのは、
こういうのを言うんだよな。
ダヴィンチコードの謎
「ダヴィンチコード」を観てきた。
この作品にはなぜか惹かれるものがあって、
邦訳も原書もピクチャーブックも朗読CDも
持っているくらいだから、
いくら流行りものとは無縁といえど、
観ないわけにはいかない。
映画の方は、
ぼくはストーリーよりも風景に浸ることの方が大事だから、
古い景色をもっとたくさん映してくれればよかったかなあ
とは思ったけれど、とりあえず、
原作の面白さを再認識した、とだけ言っておこう。
さてこの映画、封切り前から大いに話題になったものだが、
連日報道された、世界の各地で抗議行動がわき起こった、
というのがどうも分からないねー。
これまでだって、あの手の話はいくらでもあったのに。
だいたいあの内容に本気で目くじらを立てるのは、
「猿の惑星」を観て「人間を冒涜している」と騒ぎ、
「一寸法師」を読んで、
「そんな小さい人間がいるはずがない!」
と激高するようなもので、
ふつうはそんな大人げのないことはしない。
たしかにわが秋津島大和の国は、
源義経が大陸に渡ってチンギスハンになり、
楊貴妃が山口県あるいは熱田神宮に眠り、
何よりキリストが青森県で大往生をとげた
特別な国ではあるが、
かような背景を持たない夷狄といえども
その程度の道理はわきまえているのではないか。
イエスの聖性を貶め、
大衆に誤った印象を与える作品は許せない、
という気持ちは分からないでもないんだけど、
本当に抗議しなくちゃいけないのは、
いかにも荒唐無稽な本作ではなく、
一見よさげな「パッション」みたいな作品なんじゃ
ないかとも思うし、
そういえば、かの「ハリー・ポッター」も
おぞましい魔法を礼賛する作品として
キリスト教の皆さんからは槍玉に上がっていたはずだが、
こちらはちっとも報道されない。
そんなことを考え合わせると、
どうも一連の「抗議行動」とその報道は、
誰かが仕掛けた巧妙な宣伝だったように思えるんだけど。
気のせいでしょうか。
センター試験もなかなか
小学校のときから、
テストというのは名前を書かなければ0点と決まっていた。
非情なものである。
ましてコンピュータでちゃちゃっと採点してしまう
大学入試となれば、
機械的に0点にされるのは当然である。
第一入試というものは、公開されたルールにのっとり、
ともかくも一定数を落第させることを目的としているのだから、
うっかりミスに温情をかける余地などあるはずもない。
ってなことをぼくは今日まで疑うことなく信じていたのだが、
いやあ、驚いたなあ。
なんとあのセンター試験が、
受験番号をマークし忘れた受験者(今年は7000人!)を
わざわざ割り出して、ちゃんと採点してやっていた、
というのである。
本人にも知らせず(つまり誰にも感謝もされず)、20年以上も
そういう面倒なことをやり続けていたなんて、
こいつはなかなかいい話ではないか。
もっとも、受験の失敗を
「あれはマークミスに違いない」と信じることで
やっと乗り越えたSくんやNくんの心情を思うと、
この措置が「救済」になっているかは微妙なところだけど。
大人のチョコレート
仕事帰りにコンビニに寄って、
「カカオ86%」なんていうチョコレートを買ってみた。
驚いた。
というより腹が立った。
何しろ苦い。
上質な苦み、ほのかな甘さって言うけどさ、
これはほのか過ぎるでしょ。
ホメオパシーという療法では、一万倍だかに希釈した薬を
投与するというが、そんな話を思い出した。
「健康とおいしさを考えた大人のチョコレート」とのことですが、
これからは、ひとつおいしさだけでお願いします。