投稿者「komodakenzo」のアーカイブ

いま読んでいる本

いろいろな本を同時に読んでいる。吉原幸子の「幼年連禱」。フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」。シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」。片桐洋一「古今和歌集全評釈(中)」。

どれも詩や断章ばかりだから、没頭して読み続けることがない。ヴェイユやペソアはそもそも難しすぎて没頭できるほど分からない。ずいぶん歳を取り、ずいぶん読んできたつもりなのに、まだまだ読めない本の方が多い。あーあ。

ソファに寝転がって詩を読み、夜寝る前にペソアを読み、風呂に入りながらヴェイユを読み、夜中に目が冴えてしまうと古今集を読む。

「幼年連禱」は、当時はどういう評価だったんだろう。今読むと言葉がすっかり古びてしまっている。吉原幸子は谷川俊太郎や入沢康夫とほぼ同年で、田村隆一や安東次男あたりよりもずっと年下なのに、どういうことだ。いや、不思議なのは、むしろいつまで経っても古びない言葉のほうか。実験的な新しい表現に挑んでいるのに、すぐれた詩は、半世紀たってもまだ新しい命を持っている。驚くべきことだ。

パチンコ2

近所のパチンコ店がきょうも営業を続けている。
いつまでたっても要請に応じない6店舗として、とうとう県の公式Webページに店名が公表されてしまった。剛の者である。

さっき買い物のとちゅうに通りかかったら、店の出口にひと組と、通りを渡ったところにもうひと組、テレビ局のクルーと思われる人たちが機材を備えて待っていた。きっと客の何人かはインタビューとかされちゃうんだろう。自粛要請されているのはご存知ですよね。どうしてパチンコやろうと思ったんですか。自分が感染源になることは考えないんですか、とかなんとか訊くのだろうか。そしたら客の方は、いやウイルスを移すつもりはないです。自粛って言っても気晴らしくらいしてもいいと思って。感染は怖いけどパチンコくらいしかすることないし、とでも答えるのだろうか。

きょうは何しろ、取材に来ている人たちが気になった。あの人たちは、何のために来たのだろう。取材して何を伝えたいのだろう。おそらく「強欲な店とそこに集まる思慮のない反社会的な人々」を求めて来ていると思われるが、そうした映像を作り出すことで、どういうメッセージを伝えたいのだろう。自粛を徹底させたいならみんなが自粛している映像を流すべきなのに、そうではない絵をわざわざ撮りに来ているのだから、これは、みんなで我慢しているのにその和を乱す人たちがいます!というメッセージによって、憎しみと分断をもたらそうとしているのだろうか。それとも、補償がないから営業を続けざるを得ないのだという店側の主張を取り上げ、庶民に負担を強いるばかりの行政に対する抗議の声を集めようとしているのか。どっちなんだろうね。両方織り込んでくれるのかもしれないし、この先は、夕方のニュースを見てから判断しようかね。


というわけで、放送されたニュースを見てみたんじゃが、案の定、店とお客を非難する構成になっていた。
こんなふうに自粛しない悪い人たちをニュースでさらすことが、広く自粛を促進する効果があるとは思えないが、まあそこは譲ってあるとしよう。ただそれでも報道の使命を考えると、店や客を責めるだけでは片手落ちだと言わざるをえない。

今マスコミが果たすべきは、世間の反感や非難をひりひり感じながらそれでも営業継続を選んでしまう人たちの事情にも、ひとしく目を向けることである。すなわち、行政は十分な補償をしていない、それが営業を継続しているそもそもの理由だ、ということをも、合わせて報じることである。

そうした報道は、ひとりひとりの生活を守るだけでなく、民主主義を守るためにどうしても必要なことだ。われわれはこれだけの権利を持ったこの国の主権者なのだ、ということを、機会あるごとに知らしめるのも報道の大切な役割であるはずだ。

報道にせよ政治にせよ、自分はこの仕事によってどんな社会を実現させたいのか、ということを忘れずにいてほしい。それだけで、いろいろなことが、すごくよくなるような気がするんじゃよ。

パチンコ

1ヶ月前にはすでに「営業自粛の要請」と称する強制によって、飲食店も小売店も映画館も旅行業も死にそうな打撃を被っていた。ところがなぜかパチンコ屋だけは、自粛要請の対象から長らく外されていた。誰がどう見ても不要不急の遊戯施設が公然と営業を続けていられるのは、おそらく政治的な利権絡みの案件なのだ、と噂されたのも当然だろう。

それがどういうわけか、ここへ来て突然様子が一変した。東京でも大阪でも自粛要請に従わない店は店名が公表され、パチンコ屋は一転世間の袋叩きに遭うことになったのだ。知事が先頭に立って、どこどこの店は私利私欲のために社会を感染の危険にさらす反社会的な悪徳業者ですぞー、と触れて回り、それが全国ネットでくり返し放送されるのだから強烈だ。とうぜん店には脅迫まがいの電話が殺到し、やむなく店を閉めた経営者は「行政による集団リンチだ」と憤る。手の平をいきなり返した陰には、さぞどろどろした事情があるのだろう。

さて、この件でほんとうに悪いのはパチンコ屋なのだろうか。生活の手段が奪われようとするとき、それに抵抗するのは悪いことなのか?
国内でウイルスのために亡くなった人は今の時点で約四百人。人口比でいうと、30万分の1である。一方、収入がなくなったら自分と家族の生活は確実に破綻する。30万分の30万だ。この現実の重さを忘れてはいけない。

なにしろ店の側としてみれば、営業自粛要請とは、水中でいきなり酸素ボンベを外されたような事態なのだ。つまり「今すぐ仕事は辞めてください。補償はしません」「すでに蓄えがある人以外は生きていけませんが、よろしく」と宣言されたにも等しい。彼らは(そしてわれわれは)備える間もなく広漠たる不安のただ中にぶっ飛ばされてしまったのだ。

誇張ではない。営業の自粛を迫るということは、とりも直さず生きる手段を捨てろと迫ることである。3ヶ月間店を開けられない人たちは、3ヶ月間収入がない。従業員を抱えていながら営業ができない会社は、お客さんが誰も来ない職場で、じー、じー、じーと1万円札をシュレッダーにかけ続けているような気持ちでいる。こうしたとき手持ちのお金が消えていくスピードは、恐ろしいほど(ほんとうに体が冷たくなるほど)速い。

東京や大阪の知事はじつに巧みな演出をしているが、いくら正義を装っても補償もせずに休業を迫る行政は暴力である。たしかに感染の拡大を防ぐためには、どんなことでもしなければならない。しかしそこで真っ先に求められるのは行政による救済であり、国民の犠牲ではない。それは国や自治体が予算を使って行う仕事であって、臣民の私財の供出に頼るべきものではない。

やはり国は、国民に犠牲を迫るより先に「家でおとなしくしているだけでこんなに貰えちゃった、でへへ得したー」と思わせるくらいのお金を使うべきだ。
なに、いくら使ったところでたかが数ヶ月のことである。店や会社なら簡単に潰れるが、国はそれくらいでは潰れない。ばんばん使って大丈夫だ。あとのことは生き残ってから考えればいいじゃないか。

耳を傾ける

専門家の言うことを鵜呑みにしてはいけない。それでは戦時中に政府を盲信してしまったのと同じ愚をおかすことになる、という意見を目にした。
その通りだと思う。権威ある人が言っていることを権威があるというだけの理由で信じてしまうことは非常に危険だ。ことに多くの専門家が政治的なプロパガンダに動員されてしまっていたり、自身の専門を踏み越えた領域でも軽々に発言してしまったりする昨今の状況を思えば、「専門家」でありさえすれば信頼できる、というナイーブな考えは持つべきではない。

つい先日も、新型コロナ対策専門家会議を代表する人のひとりがテレビに出ていて、見るとずり落ちるマスクをしきりにつまんで直していた。今どきマスクの表面に触ってはいけないことくらい、その辺の小学生だって知っているのに、それを何度も触っちゃうんだから、ああこの人はきっと何かのすごい専門家で、医者として目の前の患者を救ったり、研究室で感染症の研究をしたりすることについては素晴らしい業績を残してきた人なのだろうけど、テレビでマスクを触ってしまうことの影響力をつい忘れてしまうとは、どうやらウイルスの蔓延を食い止める施策自体を専門としているわけではないのだな、と感じてしまった。あるいは別のこれまたテレビでよく見る専門家は、「発熱後4日は様子を見るという方針の真意は、4日経って熱が続くようなら診察を受けてほしいということだった」などという信じがたい発言をした。様子を見ているうちに手遅れによって亡くなる人が何人も出たことにうろたえて、何とか責任を回避したい姿勢があからさまに見て取れた。

このように、専門家であっても、ほんの少し専門を外れたり政治的な思惑に絡め取られたり事実の追究よりも保身を選んだりすれば、そのとたん、素人同然の頼りなさを露呈する。間違えることもあれば不誠実なこともあるし知らないことも分からないこともある。こういう人たちを無条件に信頼することには抵抗はあるし、すべきではないと感じることも多い。

しかし、だからといって、専門家のほんとうの専門分野での知見を軽んじてよいわけではない。その能力に限界があるのは当然だが、それでも彼らはわれわれ素人にくらべて格段にものを知っている。頭もいい。経験もトレーニングも積んでいる。だから、彼らが正しい方向を指し示してくれる可能性は、声がでかいだけの人たちや能力に不釣り合いな権力を持っている人たちに比べれば、ずっと高いはずである。右も左も分からない未曾有の事態のただなかにあっては、完全ではなくとも比較をすれば多少はマシなこの人たちの言うことを信頼する以外に、何があるだろうか。

このことをいちばん知っていなければならないのは、社会全体に、ということは現実に、今だけでなく将来にわたって、甚大な影響を及ぼす力のある人たちである。それはもちろん行政と立法府を動かす人たちのことだ。

例の、不潔なマスクを二枚配るという歴史的な大愚策も、こうした視点から見直すと、ただの笑いごとでは済まされない大きな問題の現れであることがよく分かる。現政権の恐ろしいところは、このような珍妙な施策を打ち出してくること自体にあるのではなくて、あれこれの分野で専門家の知見を集める必要を感じておらず、自分たちの思いつきで十分正しい判断ができていると思い込んでいるところにある。

かつて首相は自分のことを森羅万象を担当していると言い放ったが、あれは言い間違いでも冗談でもなくて、彼の本心とみて違いあるまい。専門家の力を借りるまでもない、俺たちは何でも分かって何でもできるとほんとうに思っている節がある。こういう傲慢はただの無能よりもずっとタチが悪い。

2015年、集団的自衛権をめぐる安保関連法案について200名以上の憲法学者が違憲であると強く指摘したことは記憶に新しい。与党はそれに対して反論するのではなく、ただ多数決によって法案を成立させた。これは専門家軽視の表れである。最近では農林省の「Go to travelキャンペーン」というのもあるが、Go to travel という表現が正しい英語ではないことなど、ちょっと英語が得意な人(なんなら中学生)にきけばすぐ分かることである。それすらしないで(あるいは違っててもいいじゃん?というノリで)発表してしまう。こんな例はいくらでもある。新コロナウイルスの爆発的流行(アウトブレイク)をオーバーシュートと呼んでいるのは日本だけだ。医療用のガウンの代わりに雨ガッパを集めるなんて施策もあったが、これもまた専門家の意見を聞いたとは思えない。防疫や医療以外でも、たとえば大学入試改革(と言える代物か?)でも現場の教師の声がまったく反映されておらず、部外者の素人臭さがにじみ出ている。

もうまったくどこをとっても専門家の知見や現場の意見がこれほどまでに軽視されているのが腹立たしくてたまらない。反知性主義なんていう言葉を使うまでもない。ただ喧嘩の強いガキ大将が、勉強なんてくだらねえよ、と大きな声をあげて、成績の良い真面目な生徒を突き飛ばすのと同じである。困っているのか、じゃあ俺が歌でも聞かせてやろう、とでも言いだしかねない。ああ腹が立つ。

学問に敬意を持たないということは、つまり人類の長い歴史を無視しているということだ。不遜にも、おれ以外には大した価値がないと考えているということだ。そういう姿勢がそのまま弱者や少数者への蔑視や差別に結びついていると思うと、もうじっと座っていられないような気持ちになる。ああ腹が立つ、腹が立つ。

素人は発言するなというのではない。素人の発言を許すのは民主主義の根幹だ。ただ権力を持つ人たちに、専門知を集める謙虚さを持って欲しいと願うだけだ。これはそんなに大それた望みだろうか。

思いつきいろいろ

すべての人が、おれはめっちゃ口が臭いと思って行動すれば、コロナ対策はまず万全なのではないか。マスクではなくニンニクを配るべきだった。
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英語の発音が苦手な人は、自分が正しく発音しているさまをイメージできないし、音痴な人は頭の中でもやはり正しく歌うことができない。同じように滑舌の悪い人は、黙読するときにも頭の中で正しく発音できていないと思われる。そのために単語がただしく概念を形成せず、その結果正確に理解することができないのではないか。ざくっとした言い方をすれば、頭の中でも舌が回らず、舌が回らない単語は読み飛ばしてしまって頭に残らないのではないか。
もしかしたら、理解力を上げるには発声練習をするといいかもしれない、という思いつきである。でんでん。
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むかしむかしに比べれば、いろいろなことが便利になった。通信手段も交通手段も30年前とはずいぶん変わった。あの頃はテレワークなんて考えられもしなかった。しかし、どういうわけか、30年前の方が豊かだったし希望もあった。数年後にはさらに豊かになると誰もが信じて疑わなかった。スマホもインターネットもなくて、今よりずっと効率の悪い仕事をしていたはずなのに。
その後効率が上がって生まれたはずのお金はどこに行っているのだろう。それとも効率が上がってもお金は増えていないのか。だったらお金もゆとりも増えない効率化って何なんだ?
ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んで時間泥棒に共感する人はいないだろうに、どうして合計すると世の中はこうなってしまうんだろう。ふしぎだ。

よく知りませんが、それはね。

某巨大通販サイトの「カスタマーQ&A」をときどき見る。そのたびに、こう、人間というものの不思議さというか、分からなさというか、ちょっと名状しがたい不安に襲われてしまう。「この商品の使い勝手はどうですか」→「使ったことがないので分かりません」「この商品はポリエチレン製ですか」→「私には分かりませんので、メーカーにお問い合わせください」というように、知らないことについてわざわざ発言する人たちで溢れているのだ。

いったいこの人たちは、何がしたくてこのような回答を投稿するのだろう。知らないことに対して、なぜ発言したがるのだろう。インタラクティブなインフォメーションカルチャーが生み出したニュータイプの一言居士ですか?
と、かねてから不思議に(より正確には、ばっかじゃなかろかと)思っていた。のだが、じつはこうした謎の回答群の背後には、ちゃんと納得のいく事情があったのでした。

その事情とはこうである。
このサイトでは、ある商品に質問の書き込みがされると、以前商品を買った人たちにその質問が送られる仕組みになっている。そこでこの問い合わせメールを受け取った人たちが、あらまた来たわ、しょうがないわね、えーと「私に・聞かれても・分かりません・ぽちっ」と律儀に返信しているのであった。のです。

いや、ちゃんと事情も調べずに、軽々に人をバカ扱いするものではない。この人たちは聞かれたことにちゃんと答える善良なみなさんで、バカなのはそういうシステムをいつまでも見直さない某巨大通販サイトのほうだったのだ。

ところでTwitterなどを眺めていると、ここでも知らないことを堂々と発言している人がたいへん多い。ウイルスとバイキンマンの区別もつかないような人が、きょうも感染拡大防止の方法を巡って見知らぬ誰かを罵倒している。知らないことなら黙っていればよいものを、とりあえず何かを言いたがるのはどうしてだろう。勉強したこともない事柄をどういうわけか知っていると信じ、その確信に基づいて会ったこともない人を憎み、ののしり、果ては恥ずかしげもなく専門家に意見してしまえるのはどうしてだろう。

頭を使わず声だけあげるあの人たちにも、やはりそれなりの事情があるのだろうか。それともこういう人たちのことは、ただバカ扱いしておけばいいんだろうか。

街に出る人たち

新型コロナウイルスが猛威を振るっている。学校が休みになってから、もうひと月半以上たった。未曾有の事態である。 Stay home(家にいよう)はすでに世界中で通用する合言葉になった。

ところが報道によると、主だった観光地からは人が消えたものの、観光地とも言えないような手近な公園や商店街がたいそう賑わっているという。鎌倉あたりの海沿いでは車が長々と渋滞しているそうである。

テレビをつけると、街頭インタビューが流れている。自粛の要請が出ていますが、という問いかけに対しても、若いお兄ちゃんたちは「大丈夫だと思う」「いいんだよ、別に」などと動じる風もない。

このような有様からはっきり分かることは、日本はほんとうに平和な国だ(った)ということである。彼らだけでなく自分を省みても、これまで死というものをまったく意識しないで暮らしてきたのだなとあらためて思う。

以前から、自転車に乗るみなさんの様子がとても気になっていた。彼らは止まれの標識のある四つ角に差し掛かっても減速すらしない。後ろも見ないで道路の反対側に車線変更する。クルマは決して来ないと決めている。傘を差して車道の右側を走るという猛者も珍しくない。「おれはどんなことがあっても決してクルマに轢かれない」「おれは不死身に決まっている」「誰もがおれをよけて行く」とばかりに、あるはずのない特権やら強運やらを一点の疑いもなく信じている。

一時大きな話題になった高速道路のあおり運転などもそうである。自分が猛スピードで煽っている前の車が、何かの事情でぎゅっとブレーキを踏んだらおれは死ぬ、などとは少しも思っていない。車と車のわずかな隙間をろくにスピードも落とさないですり抜けてくるオートバイも、となりの車がひょいと車線変更をしたらおれは死ぬとは思っていない。想定していない、ゆえにあり得ない、という理屈は論理でもなんでもないが、当人には自明の真理のようである。

いま彼らは(そういう彼らとこういう彼らは高い確率で重なっている)、新型ウイルスの危険を過小評価しているのではない。ただ、自分が死ぬという可能性を少しも感じていないのである(誰かは死ぬだろう、しかしそれはおれではない)。後ろも見ないで車道を斜めに横切っていく自転車や、ほんの1メートルまで車間を詰めて追越車線を走る車を思い出すとよく分かる。今すぐそこにある死の可能性すら感じ取れない彼らが、目に見えもしないウイルスを想像し、さらにそれを自分の死や自分が誰かにもたらしてしまう死と結びつけリアルに思い描くことなどできるはずがない。

思い出そう。自分の死というものは、今はいちばん現実味がないことでありながら、いつかかならず実現する現実なのだ。それがいま来ても何の不思議もない。だから今は、びくびくと、怯えて暮らそう。

本物とニセモノ

徳島の大塚国際美術館へ行ってきた。大塚製薬グループが運営している美術館である。展示品はすべて複製であるにも関わらず、入館料は3,300円と日本で一番高い。
これだけ聞くと、芸術をあこぎな商売に利用したとんでもない施設と思われかねないが、まあ結論から言いますとね、もうびっくりの素晴らしさだった。ほぼ開館から閉館まで粘ったが、とても全部は見られない。質・量・規模とも想像を絶する美術館であった。システィナ礼拝堂の空間をそのまま再現しようだなんて、まったく常軌を逸している。

この美術館では、すべての作品に近づき、写真を撮るだけでなく、なんと触ることさえできる。
こうして体験する絵画は、ある意味ではオリジナルよりも深い出会いをもたらす可能性がある。たとえばスーラの巨大な点描画をその点のひとつひとつまで指でなぞりながら見ていると、描くことを追体験しているような気さえしてしまう。

多くの場合名画の鑑賞というのは、遠目から数秒見るだけのことが多く、ややもすると、現物を見たことがある、というスタンプラリー的な経験に留まってしまうのに対し、ここでのへばりつき睨め回し指で触れる体験の濃度は、まったく桁外れのものだった。
たしかにハリウッドスターを生で見られたら、それが1秒だけでもさぞ心踊る体験だろうが、それはそれとして、スクリーン上のお姿を心ゆくまで眺めるのもまた格別である。映画で見る姿はニセモノだから価値がない、なんて言う人はよもやいまい。絵画もまったく同じだということを、ここで初めて実感した。

コピーとオリジナルのどちらがいいか。
この自明と思える問いが、おかげでにわかに分からなくなってしまった。

オリジナルは、いうまでもなく一回きりの出来事としての「歴史的価値」を持つ。この価値は、複製品には、それがいかに精巧なものであっても、まったくないものである。
ところがこれが「芸術的な価値」となると、事情はまったく異なる。絵画が視覚芸術である以上、見た目がまったく変わらなければ、当然その芸術的価値も同じと考えるほかはない。それどころか、長い年月の間に退色したり剥離したり改変されてしまったりしてもとの姿が損なわれてしまった作品を、制作当時の姿に近い形に修復した展示物は、現存する原画よりも、芸術作品として優れていることすらありうるだろう。
こうなると、コピーとオリジナルの優劣は簡単には決まらなくなる。

映画で言えば、経年劣化したオリジナルフィルムとデジタルリマスター版のどちらがより本物か、というようなものだ。あるいは薬師寺の創建当初から残る東塔と昭和になって再建された西塔との、どちらが本物か、という問いにも通じる。歴史的な価値としては古い東塔が高いのは言うまでもないが、じつは当時の華やかな姿を正しく伝えてくれるのは真新しい西塔の方なのだ。

この理屈で言うところのオリジナルと同等あるいはそれ以上の芸術的価値を持つ古今の作品が、広い館内に千点も並んでいる。それはまるで西洋美術2500年の歴史をたどる時間体験のようだった。長大な叙事詩か大河小説でも読んだような、あるいは何時間にもわたる超大作映画を観たようでもあった。一日を過ごしてぼうっと疲れてしまったのは、ただ長い時間歩き続けたためではない。きっとほんとうに、遠くまで行ってしまっていたのだろう。

本物を心ゆくまで鑑賞することが理想だとしても、あれほどの泰西名画を一度に見られる美術館など、世界のどこにもない。実現可能な芸術体験として、大塚国際美術館は最高の場の一つであることは間違いない。

そうそう、館内の食事も期待以上。ハーブチキンの何とかグリルみたいなやつがうまかったす。

4年ぶりに触ったら

ウェブサイトの更新というのは面倒くさい。面倒くさい上に、やらなければやらないで過ぎてしまうものである。
ただ、無事に過ぎていくかどうかは、また別の話なのだった。

先日あるお方から「ページが見られなくなっていますよ」とご連絡をいただいて、どれどれとホコリを払って塾のページを開いてみたら、あらびっくり画面が真っ白になっているではありませんか。
ほんとに一文字も表示されない真っ白状態。いろいろ調べてみたら、原因は、WordPressのテーマが最新のPHPに対応していなかったことだと分かった。おまけに今後とも対応予定はなく、まああとはユーザーの皆さんが頑張ってなんとかしてくださいね、という話らしかった。要するに、ウェブサイトを作っている基礎の部分のバージョンが古く、もう何ともなりません、という話である。

そんなわけで、わたしの頭も真っ白けっけになってしまったのは言うまでもない。原因が分かったということと解決できるということとはまるで違うし、解決の方法が分かっても、それはものすごく面倒くさいことが果てしなく目の前に広がりました、ということに過ぎないのだ。

で、ウェブサイト復活までの顛末は、まあ素人ながらひいひい言いながら色々やったらなんとかなりました、というだけの話でここに書くまでもないのだが、いや、それでも、なかなか大変で、さすがのわたしも少なからず貴重な教訓を得たのだった。

それは、人が作った便利なものに乗っかるのは便利だけど、あんまりそれに依存しすぎると、何かあったときに大変よ、ということである(平凡ですみません)。

水や電気がなければ生きていけない、というのはまあ仕方ない。でも、たとえばスマホがなかったら生きていけないとか、WordPressのバージョンが変わったらもう広報活動が成り立たないとか、バローの薄切り豚肉がなくなったらもうしょうが焼きは作れない、とかいうのはさすがに行き過ぎなのではないか。

たしかに便利な世の中ではあるけれど、自分が生きていくことの基礎を、移り変わりの激しいなにかに委ねてしまうことには、少し慎重になった方がいいような気がしたのだった。

久しぶりに書いたわりに大した話ではないが、まあ、そういうことである。
おわり。

こんなことが

毎日のんびり暮らしていたら、
いつの間にか、世界が変わっていた。

内閣が、与党が、
衆人環視の中、堂々と、
憲法を無視し、
採決の手続きを無視し、
権力を振るう。
こんな光景を目にする日が来るとは思ってもみなかった。
一生をただのんきに生きていたい身としては、
悪夢のような光景である。

安保法案は、あるいはわが国の安全保障に資するものなのかもしれない。
国際協調の観点から、あるいは経済的な利益を考えても、
ありうる選択なのかもしれない。
しかし、問題はそういうことではない。
法案の中身の是非以前に、
これほどまでに手続きが軽視されている。
そしてそれが通用してしまっている。
このことが、衝撃だった。

多数決でことを決するのは当然だし、
国会前のデモに耳を貸さないのも、政権の判断としてあり得るだろう。
しかし、憲法を無視することは許されない。
手続きを無視することは許されない。

なぜなら、
地味な、つまらない、杓子定規な手続きこそが、
もっとも確実に作動する安全装置だからだ。
権力の暴走を止めうるのは、英雄的な正義などではない。
例外なく、決められたルールを愚直に守る、
そんな頑なさに他ならないからだ。

この許されないはずのことが行われただけでなく、
目的のためには手続き上の瑕疵は問題にならないという、
近代国家にあるまじき行いが、けっきょく通用してしまった。
なんということか。
こんな日が現実に来るとは思っていなかった。