新聞にすごいチラシが入っていた。
家から10番目くらいに近い、
すなわちけっこう遠くのコンビニが、
「千円以上配達料無料」で宅配をしてくれるというのだ。
それは便利でいいね、というよりむしろ、
コンビニはそこまでの競争に突入しているのかと、
恐ろしいような気分になった。
いったい、コンビニのコンビニエンス(便利さ)に
まだ不満を感じている消費者がいるのだろうか。
あえて問題点を挙げろと言われて、
無理やり考えればいろいろ出てくるかもしれないが、
こういうところが不便で困っている、なんていうことは、
コンビニに関しては、もう何もないのではないか。
宅配というアイデアは、
おそらく他店との差別化という視点から
絞り出したものであり、
本当の必要から生まれたものではないと思う。
しかし一度気づいてしまったからには、
これからのコンビニは、宅配くらいやらないと
淘汰されてしまうような時代がほんとうに
やってくるのかも知れない。
そして、もしかしたら宅配の次は、
電話を待つのではなく、
消費者のニーズをこちらから聞き出さなくてはいけない、
なんてことになり、
コンビニのみなさんは、
こんちはー、三河屋で~す、今日はよろしかったですか。
ってなサービスを競って始め、
いつの間にか昭和40年代に逆戻りしてしまう、という
ことになるのだろう。
ほう。
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エアコンよ、エアコンよ。
今日、教室のエアコンを取り換えた。
クリーニングしてから、ほんの2ヶ月も経っていない。
痛恨の判断ミスであるが、致し方ない。
思い起こせば11年前(だっけ?)、
エアコンを取り付ける際に、
塾は夜しか使わないんだから、と考えて、
気持ち小さめのエアコンを選んだのは、
間違っていなかったと思う。
ところが強烈な西日と、
汗をかいて飛び込んでくる子どもたちの体温は、
計算上の適正値や合理的な判断などの
とうてい及ぶところではないほどの、
猛烈な暑さをもたらすものだった。
「教室は、子どもたちの熱気でむんむん」
というのは、比喩でも何でもなかったのである。
もっともこれも、すでに過去のことである。
新しいエアコンがすべてを変えてくれた。
もちろん、それなりのお金はかかったが、
子どもたちが快適に過ごしてくれるなら、惜しくはない。
そう思う。
さて、子どもたちは喜んでくれたかなあ、と思っていたら、
さっきKちゃんが話しかけてきた。
「先生、エアコンいつ替えるの?」だって。
秋来ぬと
今日から9月。
つい2週間前には40度近い猛暑だったのに、
今日は涼しい。
夏の終わりは淋しいものだけれど、
それも8月中だけのこと。
9月のカレンダーをめくると、
もうそんな気持ちはなくなってしまう。
不思議なものである。
青臭い話で恐縮ですが
ぼくが若かった頃、
今と同じように若いモンは軽薄だったし、
これといってまともなことなど考えずに生きていたものだが、
それでも、前の時代の残滓のようなものは
まだそこかしこに見つけることができたような気がする。
あのころは、親も学校の先生も、
戦争の時代を生きてきた人たちだったから、
もう少し、人生というものを考える雰囲気は残っていた、
なんていうのは思い違いだろうか。
死の影を忘れてしまったためとは言わないが、
今の時代には、もう「いかに生きるべきか」なんていう
青臭い問いは、どこにも残っていないように見える。
代わって座を占めているのは、
「どういう選択が社会的経済的に有利か」という意識である。
これはこれで真剣な問いに違いないが、
少しも美しいものではない。
もちろん、
人生の意義は自分のために功利を追求することにある、
という考えはあってもよいのだけれど、
そうした人生観が、出版や放送や教育の場で、
さも天下の公論であるように語られると、
寒々しいような気持ちがする。
社会的に成功することは
素晴らしいことのひとつであるには違いない。
しかし自分の人生の舵取りが、
組織の経営と同じ意識でなされるだけだとしたら、
世界はなんて寂しいだろう。
かみなりごろごろ
さっき大きな雷が鳴った。
急いでパソコンのコンセントを抜いた。
雷ってのは神が鳴るっていう意味らしいが、
たしかにこんな大サウンドは、
とうてい人の力で出せるものじゃない。
昔の人じゃなくたって、
神が鳴っていると言いたくなる。
部屋で聞いているだけなのに、
太古の心が思い出せるような気さえする。
こういう圧倒的なものの存在を
からだ全体で思い知らされるのは痛快だ。
ここで放電によって空気が膨張し、
そのときの振動がどうのこうの、なんていう
「科学的な」説明を持ち出して、
心の震えをごまかしてはいけない。
そんなものは、ただ名前を付け替えただけのことである。
物が落ちる力に引力という名前をつけたところで、
その力が存在する不思議を説明したことには
ならないように、
「神が鳴る」を「放電現象」と呼び替えたところで、
何が分かるわけでもない。
びっくりすべきことには、ただびっくりしよう。
セミはみんみん
子どもたちに、セミってどう鳴くの、と尋ねると、
きまって「みーん、みーん」という答が返ってくる。
そのたびぼくは、注意をする。
それはテレビで観たんだろ。
外のセミがみーんみーんって鳴いているか?
ちゃんと聞いてみな。
ここ名古屋には、ミンミンゼミはいない。
したがって、セミというのは
「じーじー」とか「しゃーしゃー」と鳴くものである。
セミがみんみん鳴くなんてのは、
ここに暮らす者にとって、
キツネがこんこん、
たぬきがぽんぽこというのと同じたぐいの
擬音に等しい。
しかしどうやら子どもたちは、
現にうるさく鳴いている外の蝉よりも、
テレビの中のみーんみんみんの方に、
よほど馴染みがあるようだ。
ぼくはセミが大っきらいだから、
子どもたちがセミなんかに親しんでくれなくても
一向に構わないのだが、
目の前の現実よりもテレビの作りごとがより親しい、
という状況は、やはりただごとではない。
もちろんテレビを観るときは、
ふだんよりずっと音に対して意識的になっているから
同じ音でもより印象に残るのはやむを得ないのだが、
やはり自分の耳が教えるとおり、
みんみん鳴くのはテレビの話で、
セミはじーじー鳴くものだ、
ときっぱり答えるようになってほしい、と思う。
えっと、以上の文章は、ひと月くらい前に書いて
そのまま忘れていたものだが、
どうして今ごろ引っ張り出したかと言うと、
じつは今朝、朝食をとっているときに、
ミンミンゼミが鳴いているのを聞いたからだ。
はっきり、みーんみんみんみーん、と鳴いていた。
驚いた。
名古屋にはミンミンゼミはいないはずじゃなかったのか。
これじゃえらそーに説教していたぼくの方が、
テレビやネットの情報を鵜呑みにする
駄目なヤツみたいじゃないか。
くそー、ミンミンゼミめ。
甲子園で
夏の甲子園は、佐賀北高校の優勝で幕を閉じた。
公立の進学校が、
他県から優秀な生徒をかき集めて編成した
野球エリート集団を蹴散らした格好である。
まことにめでたい。
昼食をカレー屋で食べながら、
概略以上のような新聞記事を読んだ。
ほほー、なるほど。
ほとんど何も知らない者が
軽々にコメントするのも何なのだが、
このことは裏返して言うと、
ほかに取り柄はないけれど
野球だけは得意という子どもたちが、
小学生の頃から人並みならぬ努力を続け、
中学校で注目されるようになり、
強豪校と呼ばれる高校に招かれたあとも、
何十人ものライバルたちの中で激烈な競争を重ね、
厳しい練習と、先輩たちの横暴に耐え、
ついにレギュラーの座を手に入れて、
勉強も捨て、寝食も忘れるように、
ますます二六時中野球に身を捧げ、
果てしのない苦難を越えて、
とうとう憧れの甲子園にやってきたら、
勉強もそこそこできて、
あれもこれも器用に楽しんできたような連中に
一蹴されてしまった、
ということになるのだろうか。
まったくやりきれないような話である。
気温が高いと言いなさい。
ときとして表現は、単なるレトリックを超えて
現実のあらわれ方を変える力を持っている。
今日のような日に、暑い暑いと言ったところで、
ただ不快な気持ちが募るばかりであるが、
これを
「気温が高い」
と言い換えてみると、どうだろう。
ずいぶん違って感じられはしないだろうか。
今日もあっちーなあ、
ではなく、
近ごろ気温が高いなあ、
と言ってみると、
この気温の高さの原因はなんだろう、とか
気温が高いと消費動向はどのように影響されるのだろうか、
などと、
ただ個人的なぼやきを越えた、
科学的/社会的な視点というものが
呼び起こされたりしないだろうか。
……しないですか。
東京さ行った。
夏休みに子どもを連れて東京に行った。
およそ15年ぶりである。
暑さのせいではなく、
渋谷を歩いたら、それだけで激しく消耗してしまった。
昔は活気と思っていたものに、
今では強烈な違和感を抱かないではいられない。
これが歳を取ったせいならば、
歳を取るのは正しいことに違いない。
何がどうというわけではないが、
渋谷という街は、どこかが間違っている。
人が本来あるべき場所から、
恐ろしいほど遠く隔たっている感じがする。
六本木の高いビルから眺めたら、
夜景の向こうに富士山が見えた。
学生の頃、京王線のホームから見えたよなあ、
なんてことを思い出し、
これには少し懐かしい気持ちがした。
夏休み
クルマのナビの温度計によると、
今日はとりわけ暑かったようです。
ほれ、見てみ。
夏休みはあちこちに出かけています。
まず鎌倉、
鶴岡八幡宮。
それから東京、
明治神宮御苑。
こんなところがあるなんて、知らなかったなあ。
んで、焼津。
のらねこですが、笑っています。
楽しい夏休みです。